2008年5月18日日曜日

夜汽車 10 避難訓練

 あの時の事があってからおれは、うちの会社の電算室のすぐ隣の部屋を注意するようになったが、あの部屋を所有している会社の人間が部屋を出入りするところは、一度も見る事が無かった。また、電算室の徹夜の作業が夜中の一時前に終わってしまうような事も、それから後には二度と無かった。あの日の夜中に見たものは、何かの錯覚だったのかも知れない。もしかしたら、おれが仮眠室の中で眠っていた時に、夢を見ていただけだったのかも。

◆ さて、それからしばらくたったある日、研究所で防災訓練があった。この日は、午前十時に避難開始の放送が全館に流れることになっていて、研究所の中にいる人間は全員、貴重品をすべて身に付けて、非常階段を下りて、研究所の玄関前の広場に集合する事になっていた。
 おれはその日、急いで仕上げなければならない仕事があったので、朝からずっと電算室の中にいた。やがて十時になると、電算室の中に避難開始の放送が流れた。すぐにおれは、機械の電源を全て切って、部屋の電灯を消して、廊下に出た。すると、
 おや、誰も廊下に出ていないじゃないか。おかしい。今日は、十時から防災訓練じゃなかったのか。それとも、さっき聞いた放送は、もしかして空耳だったのか。と思って、廊下の窓から外を見ると、なんとすでに、玄関前の広場には大勢の人たちが集まっている。そんな?さっき、放送があったばかりなのに、こんなに早く避難が終わるはずがない。ひょっとして、みんな、放送が始まる前から外に出ていたのか?

 しょうがない。急いで避難しないと。あ、待てよ。と、そこでおれは、ふと、ある事を思いついた。今、自分以外の人間は誰もこの階にはいないはずだ。だったら、あの、気になる隣の研究室をちょっとのぞいてみたっていいじゃないか。
 そう思ったおれは、そっと隣の部屋のドアの取っ手を回してみた。すると、ドアがすんなりと開いたので、おれは中をこっそりとのぞいてみた。部屋の中にはずらりと机が並んでいて、学校の教室のようになっていた。驚いたおれは、そっと、部屋の中に入って行った。中にあるのは、机と椅子だけで、机の上にも、机の中にも、床の上にも、ほかには何も無かった。おれは、あの夜中のでき事を思い出した。
 そうだった。ここでは、夜中に、学校の授業をしていたのだった。だから、昼間は誰もいないので、こんなふうにがらんとしているのだ。部屋の中は、電灯はついていなかったが、窓から明るい光が差し込んでいた。

 ここの外は、どうなっているのだろうか。おれは、部屋の窓から建物の外をのぞいてみた。すると、外の広場にはたくさんの人たちが、きちんと整列をしていて、誰かが広場の前の朝礼台のような所に立っているのが見えた。おれは、はっとした。
 そうだった。今、避難訓練の真っ最中だったのだ。みんな、もう、広場に集合していて、人数を点呼しているところだ。急がないと。

◆ あわてたおれは、部屋を飛び出すと、非常階段を駆け下りて、玄関前の広場に走って行った。ところが、うちの会社の人間が、いったい、どこの列に並んでいるのだか、どれだけ捜しても見つからない。仕方なくおれは、一番左端の列の一番後ろに並んで、周りのようすを見ていたが、どうも何だか、何かがおかしい。自分の周りにいるのは、見かけたことのない人たちばかりで、研究所で毎日見かける人が、どこにもいない。
 と思って、しばらくたってから、周りの人たちがみな、運動をする時のような身なりをしている事に、やっとおれは気がついた。ひょっとして、避難訓練のために、わざわざみんな、あんな服装をして来ているのだろうか。避難訓練って、広場に集まったらそれで終わりだと思っていたが、そうじゃなかったのか。この後、何があるんだろうか。と思って見ていると、向こう側の一番右端の列から、どこかに移動が始まった。ひょっとして、これから山を下りるのか?避難訓練でそこまですると言う話は、聞いていなかったが。と思ってようすを見ていたおれは、その時、はっとした。今、移動を始めた列の中に、高校の時に見たことのある人が、いたような気がする。ここの研究所にいつも、通っている人なのだろうか。今まで、ずっと気づかなかったが。

 とうとう、最後の列が移動する番になったので、おれは列の後ろにくっついて、みんなの後について行った。広場には、誰も残っていなかった。歩き始めたおれは、バスの通る道路を歩いて、山を下りて行くのかと思ったが、そうじゃなくて、途中から、林の中にみんなが入って行ってしまうので、驚いた。おいおい。こんな所に、道なんかあるのか。いったい、みんな、どこに行くんだ。
 林の中に入ったとたん、自分の列を見失ってしまったおれは、仕方なく、ひとり、坂道を引き返して、研究所の広場に戻って行った。すると、広場の端の方には、消防署から来た車が何台か停まっていて、消防署の人たちが、訓練を終えて後片づけをしているところだった。
 研究所の建物を見上げると、どの部屋にも、窓から明かりが見えて、訓練を終えて部屋に戻った人たちが、自分の仕事を始めているのが分かった。いつの間にみんな、ここに戻って来ていたんだ。何だかよく、分からない。何者かに、ばかされたような気分のまま、おれは玄関を入ると、エレベーターに乗って、自分の会社の部屋に行った。部屋に戻ってみると、みんな、おれが遅れて戻って来たことなど気にせずに、めいめいの仕事をしていた。
 自分の机に戻ったおれは、しばらくぼーっとしていたが、だいぶたってからやっと、誰も、さっき広場で見たような運動をする時の服装をしているやつはいない事に気がついた。自分がさっき、あそこで見ていたのは何だったんだ。そう言えば、はじめ自分が、広場に入った時には、消防署の車は来てなかったような。おれが、あの後、林の中で道に迷って広場に戻って来た時、はじめて消防署の人たちが来ているのを見たのだ。どうも、何がどうなっているのだか、よく分からない。

 何かおかしい。そうだ。まず、あの、うちの電算室のすぐ隣のあの部屋がおかしい。さっき、こっそり中に入って見たら、学校の教室の机がずらりと並んでいた。もう一度、確かめに行ってみたいところだが、よその会社の部屋を勝手にのぞくわけにはいかないし。しかし、気になる。

◆ その日の帰りの電車の中で、おれはぼんやりと考えた。もしかして今日は、あそこの夜の学校も、午前中は、防災訓練をやっていたのだろうか。おれが広場で見たのは、それだったのかも知れない。だからみんな、学校の体育の授業の時のような服装をしていたのだ。

2008.04.08 記事公開