◆ 木曜日の仕事が終わって夜、アパートに帰って来ると、知らない所から手紙が来ていた。開けて見ると、いつか出した懸賞クイズに当選していたらしく、旅行の招待状とチケットが入っている。しかし、最近そんなものに応募した覚えはないのだが。これってもしかして、ものすごく昔、雑誌の広告を見て出したやつなんだろうか。それにしてはずい分、返事が来るのが遅いと思うが。
招待状を見ると、「夜汽車の旅」とか書いてあって、蒸気機関車の走っている写真が載っている。そして、チケットの方は、にこにこ鉄道の無料乗車券になっている。おや、ちょっと変じゃないのか、これは。にこにこ鉄道は経営が行き詰まって、今はもう電車は動いていないはずなのだが。いったい、いつ出したんだ、この手紙は。しかもよく見ると、チケットの有効期限は明日までで、それも夜の七時までに、にこにこ鉄道のお茶の湯駅の改札口まで行かないといけないらしい。今日はとっくに七時を過ぎているから、もう無理だ。と言うことは、明日しかない。しかし、どちらにしてもこれは無理だ。招待状の注意書きを読むと、お茶の湯駅に出かける前に、家の窓をすべて閉めて、カーテンも閉めて、しかも徒歩か自転車かどちらかで、途中一切、寄り道をせず、自分の家から真っ直ぐお茶の湯駅まで行かないといけない、と書いてある。と言うことは、仕事を休め、と言っているのか。定時で仕事を終えて急いで帰って来ても、いったんこのアパートに戻ってから自転車を漕いでお茶の湯駅まで行くと、はたして時間に間に合うかどうかは分からない。途中で信号待ちがあったらたぶん、間に合わないだろう。と言うか、いったい何なんだ、この手紙は。誰が出したんだ。
◆ 突然届いた不思議な手紙に、いったんは当惑したおれだったが、次の日になると、すっかりこのあほらしい手紙の事は忘れてしまっていた。
ところが、その日の夕方の終業時間の六時に、仕事を終えてタイムカードを押しに行くと、驚いたことにみんなが列を作って並んでいる。なんで今日に限って、誰も残業する人間がいないんだ。今日が金曜日だからか。それにしても、六時になったとたんにこんな風にずらりと列ができるなんて、今まではなかった事だが。
その時おれは、はっとした。昨日届いたあの不思議な手紙・・・。まさか、ここにいるやつ全員があの手紙を受け取ったわけじゃないだろうな。だいたい、にこにこ鉄道の沿線に住んでいる人間なんて、おれぐらいしかいないと思うんだが。どうも変だ。
偶然のことで昨夜の事を思い出してしまったおれは、帰りの電車の中でもずーっと、昨日届いたあの手紙の事が頭から離れなくなっていた。もしかしたら今夜、本当ににこにこ鉄道に出かけて行くことになるのかも知れない。何だかだんだん、そんな予感がして来た。昨日はまったく、そんなつもりはなかったのだが。
帰りの電車を降りると、駅前の自転車置き場に置いてあった自分の自転車に乗って、おれはアパートへと帰って行った。何だか妙に、気が重くなって来た。いつもの金曜日だったら、アパートの部屋に帰った後は、のんびりと自分の好きなことをやっていられたはずだったのが、今夜はそうは行かないような気がする。いつもだったら、飛ぶように自転車を飛ばしてアパートに帰って行くところが、今日はなんだかそんな気になれない。もっと遅く、仕事を終えてから帰って来ればよかった。そうすれば、旅行の招待の時間には間に合わなくなって、にこにこ鉄道までわざわざ出かけて行かなくても済んでいたのだが。ところが今夜に限って途中の信号が皆、青でいつもよりも早くアパートに帰って来てしまった。
しかたがない。この調子で行くと、招待の時間にちゃんと間に合うかも知れなくなって来た。まあ、お茶の湯駅周辺はしばらく行っていないから、今夜はだまされたつもりで行ってみるか。と言うことで、アパートに帰って来たおれは、チケットをポケットに入れて、部屋の窓を全部閉めて、カーテンも閉めてから部屋を出て、アパートの階段を下りようとした。
するとその時、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、おれは目を開けていられなくなった。それでおれは後ろ向きになって、階段の壁に手をつきながら、一段一段、アパートの階段を下りて行った。
やっと階段を下り終わってアパートの外に出てみると、いつの間にか風は止んでいた。さっきの強い風は何だったんだ。不思議に思いながら、外からアパートを見上げてみると、どの部屋の窓もみーんな、カーテンが閉めてある。これってもしかして、このアパートに住んでいる人たちはみんな、おれと同じように今夜、にこにこ鉄道に出かけて行ったって事なのか。そんな馬鹿な。しかし偶然にしては何か出来過ぎている。何か怖い。
◆ アパートの裏の自転車置き場で、再び自分の自転車に乗ると、おれはお茶の湯駅に向かった。するとやはり、途中の家々の窓は皆、カーテンが閉めてある。なんと驚いた事に、コンビニまで皆、ブラインドが掛けてある。さっき、駅からアパートに帰る途中の道ではそんな事はなかったのに、なんで突然、まわりの世界が豹変してしまったんだ。そして途中の信号はやっぱりずーっと青で、一度も信号待ちをする事もなく、お茶の湯駅にさっさと着いてしまった。
見ると、とっくに閉鎖されてしまったはずだと思っていた駅の改札口やプラットホームが、明るく照らされている。そしてホームでは、赤い電車が出発の時間が来るのを待っている。あの手紙はいたずらではなかったのだ。急いで駅の裏の自転車置き場に、乗って来た自転車を置いてから改札口まで走って行くと、駅の時計の針が六時五十九分を指していた。十分余裕で着いたと思っていたら、何とぎりぎりセーフだった。
プラットホームに駆け上がると、電車は二両編成で、ぽつりぽつりとざっと十数人の人たちが座席に腰掛けていた。ちょうど七時になったところで、ホームにアナウンスが流れた。
◇◇ お待たせいたしました。間もなく最終電車が出発します。 ◇◇
おれは急いで電車に乗った。乗るとすぐにドアが閉まって、それからゆっくりと電車が動き出した。乗ってからすぐおれは、はっと思った。さっき、最終電車だとか言っていたが、もしかしてこの電車は、もうお茶の湯駅には戻って来ないのか。しまった。そこまでは考えていなかった。次の駅ですぐ降りて、お茶の湯駅まで歩いて戻らないといけないのか。困った事になってしまった。
実は、にこにこ鉄道に乗るのは、今夜が生まれて初めてだった事もあって、おれの頭の中は不安と混乱でいっぱいだったが、ほかの乗客たちは雑誌を読んでいたり、新聞を読んでいたりと、いたってのんびりとしたようすだ。にこにこ鉄道って、閉鎖されたんじゃなくて、実はまだ動いていたのだ。
◆ いつの間にか電車が止まったので、もう次の駅に着いたのかと思って、おれはあわてて立ち上がった。ところが、いつまでたってもドアが開かないし、窓の外は真っ暗で、次の駅に着いたようなようすでもない。もちろん、何のアナウンスもない。しかたなくおれは、また座席に腰掛けた。ほかの乗客たちは相変わらず、本を読んだり、居眠りをしたりしている。しばらくして、再び電車が動き出したが、今度は何だかさっきとは逆の向きに動いているような気がする。何だか変だ、この電車は。ところが、乗っている人たちは、別にあわてたようすも無い。
ふと見ると、自分の斜め向こう側に腰掛けている女の人は、高校の時に同級生だった本山美香じゃないか。さっきからずっと本を読んでいたので気がつかなかったが、顔を上げたところでちょうど目が合った。おれは驚いたが、向こうの方はきょとんとしている。あれれ、人違いだったのか、もしかして。確かに、故郷から遠く離れたこんな町のこんな所で、ばったりと高校時代の同級生と出くわすなんて、偶然にしては出来過ぎてはいるが。しかし、顔つきから体つきからしぐさまで、何から何まで本山美香に本当にそっくりなんだが。
しばらくすると、車内にアナウンスが流れた。
◇◇ 間もなく電車は終点、お茶の湯駅に到着します。どなた様もお忘れ物の無いよう、今一度、身のまわりをお確かめください。 ◇◇
やっぱり、お茶の湯駅に戻って来たのだ。一体、何なんだ、この電車は。
電車がホームに到着してドアが開くと、乗っていた人たちが立ち上がって電車から降り始めた。おれも立ち上がって電車を降りてから、ホームでしばらくようすを見ていると、おれの斜め向こう側に乗っていたあの女の人が、いつまでたっても電車から出て来ない。どうなっているんだろうか、あの人は。ほかの人たちは皆、電車を降りてとっくに改札口から出て行ってしまっていると言うのに。見ると、あの女の人以外にも、まだほかに電車の中に残っている人がいるみたいだ。と思っていると、いきなり電車のドアが閉まって、それと同時に中の灯りが一斉に消えて、電車の中が真っ暗になった。あれれ、まだ乗客が乗っていると言うのに、何て事をするんだ。と思っていると、真っ暗になった電車は再び動き出して、闇の中に消えて行ってしまった。
◆ もしかしたら、さっきと同じように、あの電車はまた途中で引き返して、ここに戻って来るのかも知れない。誰も人がいなくなったホームで、おれはしばらく待ってみる事にした。ところがそのうち、ホームの灯りが端の方から順々に消えて行って、ホームの上は真っ暗になって、改札口の灯りまで消えてしまった。これはいかん。まるでこれは、おれに向かって、さっさとここから出て行け、と言っているみたいだ。おれは、あわてて走って改札口の外に出た。真っ暗のはずなのにやけに明るいな、と思って夜空を見上げると満月だった。なんと今夜は満月だったのか、とその時はじめて気がついた。
駅の裏の自転車置き場に停めて置いた自転車に再び乗ると、おれは自分のアパートに帰って行った。帰りの道もやっぱり行きと同じように、家々や店先は真っ暗で、道路の灯りだけが照っていて、そして信号はやはりずっと青だった。
アパートに帰り着いてみると、夕方出かけて行った時と同じで、どの部屋の窓も皆、真っ暗だった。自転車を置いて来てから、おれはアパートの階段を登ろうとした。すると今度は、階段の上の方からものすごい突風が吹き下りて来た。夕方ここの階段を下りて来た時とは、ちょうど逆だ。それでおれは、また後ろ向きになって、階段の壁に手をつきながら、一段一段、階段を登って行った。
やっと自分の部屋のある階に着くと、いつの間にか風は止んでいた。おれは、自分の部屋に入ると、カーテンを開け、窓を開けてみた。すると、町の中の家々は皆、灯りがちゃんとついている。さっきまで、町の中は真っ暗だったはずだったのが。いつの間に、こうなったんだ。驚いたおれは、さっき登って来たばかりのアパートの階段を急いで駆け下りて外に出ると、自分のアパートを見上げた。すると、真っ暗だったはずのアパートの窓には皆、灯りがついていた。
2004.12.12 記事公開
2008年5月18日日曜日
夜汽車 2 赤い電車の謎
◆ 生まれて初めて乗ったにこにこ鉄道から帰って来ると、不思議なことに身も心もすっかり軽くなっていて、一週間の仕事の疲れがまるごとどこかに吸い取られて行って、消えてしまったような感じになった。
次の日の土曜日の朝、おれは自転車に乗って、アパートの周辺の地域を回った。新しいアパートに引っ越して来てからまだ少ししかたっていないので、どこに何があるのかがよく分かっていなかったからだ。
しばらくあちこちを回っているうちに、いつの間にかおれは、自分が知らない広い公園の中に入り込んでいた。こんな広い公園が、自分の住んでいる地域にあったとは知らなかった。と言うか、地図の中にはこんな所はなかったはずなのだが。いつの間に、こんなものができてしまっていたのだろうか。と不思議に思っていると、ポコンポコンと威勢のいい音がどこかから聞こえて来る。何だろうか、と思って音がする方に行ってみると、コンクリートの壁に向かって数人の人たちが壁打ちテニスをやっている。なるほど、これはいいものを見つけた。仕事のストレスを発散するのに、ちょうどいいかも知れない。これから毎週、休みの日はここに来て、壁打ちテニスをやっていようか。と言ってもラケットとボールが無いから、まずそれを買わないといけないが。
◆ しばらくようすを見ていると、時々ボールが壁を越えて飛んで行ってしまう。すると、ボールを打った人が急いで壁の端の方に駆けて行く。壁の裏側に飛んで行ったボールを捜しに行ったようだ。やれやれ、これでは大変だ。やっぱり、ここで壁打ちテニスをするのはやめよう。何だかかえって、ストレスが溜まりそうな予感がする。ところで、この壁の裏側には何があるのだろうか。
ふと、気になったおれは、少し離れた所に自転車を置くと、壁の裏側をのぞきに行ってみた。するとなんと、赤い電車がそこに停まっているではないか。これは、昨夜乗ったあのにこにこ鉄道の電車と同じだ。昨夜とまったく同じで、二両編成になっている。こんな所が、あの電車の車庫になっていたのか。だが、ここのレールは駅までつながってはいないぞ。レールの無い所を電車が駅まで動いて行けるはずはないのだが。
と思って、壁と電車の間の狭い隙間を通り抜けて行ってみると、公園の端から町のごみごみとした住宅街の中をちゃんとレールが通っている。それにしても、ほとんど民家の軒先をかすりそうな所をレールが通っている。と言うか、これではまるで、人家の庭の中を電車の線路が通っているようなものだが。そして、この公園の中に入った所で、線路が切れているという事か。そう言えば、昨日の夜、にこにこ鉄道の電車に乗った時、途中で外が真っ暗な所でしばらく停まっていて、それからまた電車が引き返して行ったようだったが。もしかして、あの電車がしばらく停まっていた場所は、実はここだったのだろうか。だとすると、ここのレールはそのまま、お茶の湯駅までつながっていないといけない事になるのだが。ところで、このレール、よく見るとすっかり錆びついてしまっている。毎日電車が動いているのなら、こんな風にはならないはずだ。と言うことは、昨日の夜、にこにこ鉄道の電車に乗ってやって来た所は、ここじゃなくて、もっと別の所だったのだろうか。どうもよく分からない。
おれは壁の表側に戻ると、自転車に乗って、この電車のレールが本当にお茶の湯駅までつながっているのかどうかを確かめに出かけた。ところが、途中の道があまりにも入り組んでいて、そのうちまったく方向が分からなくなってしまって、そんな事より、自分のアパートにどうやったら戻れるのかが分からなくなって来た。おれは途中、あちらこちらで道を尋ねて、やっと大きい通りに出る事ができた。
◆ いったい、にこにこ鉄道の電車に乗って行った所は、あそこの公園だったのか、それとも全く別の所だったのだろうか。やっとの事でアパートまで帰り着いたおれは、その事が気になってしかたなくなっていた。それを確かめるために、次の日の日曜日の朝、自転車で再びにこにこ鉄道のお茶の湯駅に行ってみた。するとなんと、金曜日の夜には駅があったはずの場所が、立ち入り禁止の工事現場になっている。駅のプラットホームの屋根はすでに取り去られて、電車のレールも無くなっている。これって、昨日のうちにここまで撤去作業をやってしまったのだろうか。金曜日の夜には、ちゃんと駅も改札口もあって、電車にも乗れたんだから。たった一日で、ここまでやってしまうとは。 おれはしばらく、あ然とした。
もしかして、にこにこ鉄道の敷地は、みんなこうやって撤去されては、次々と町の公園になって行っているのだろうか。おれはふと、そう思った。昨日、自転車で町の中を回っていた時に、知らない間に入り込んでいた、あの広い公園。あそこはもとは、にこにこ鉄道の車庫だった所なのかも知れない。そうすると、おれが金曜日の夜に乗った赤い電車は、にこにこ鉄道のレールが完全に撤去される前の、最後の電車だったのか。それにしても、高校の時の同級生とそっくりの人をその最後の電車の中で見かけたとは、何とも不思議な感じがするが。
もう一度、あの赤い電車に乗ってみる事はできないのだろうか。ぼんやりとおれは、そんな事を考えていた。そしてあの、同級生とそっくりだったあの人に、もう一度会ってみたいものだ。そして今度は、乗客が全員降りてしまった後も、あの人が真っ暗になってしまった回送電車の中にそのまま残っていたように、おれも電車の中に残って、あの電車がその後、どんな所に行ったのかを確かめてみたいものだ。だが、もう、そんなこともできなくなった。
そんなことをとりとめもなく考えているうちに、あの最後の電車は、自分たちが降りた後、車庫になっていたはずのあの壁打ちテニスの壁の裏側に戻って行って、そこにずっと停まっていたのだ、という事に気がついた。つまり、あの公園のあの壁の裏に停まっていたあの赤い電車が、あの日の夜に、にこにこ鉄道のすべてが終わった後で、あの同級生を乗せて行った電車だったのだ。もう一度、あそこに行ってみなくては。しかし、昨日、どういう道をたどって、あの壁のある場所まで行ったのだったか、不思議な事にまるで何も思い出せない。
アパートに帰って来たおれは、町の地図をじっくりと見た。お茶の湯駅が、にこにこ鉄道の終着駅であった事は地図を見て分かったが、その途中は町の中の細い道が複雑に入り組んだ所を線路が通っていて、いったい、昨日入り込んだあの広い公園が、地図の中のどのあたりになるのだか、まったく見当がつかない。やれやれ、地図で調べてみても、あの壁打ちテニスをやっていた場所がまったく分からないと言うことか。
◆ そのうち、あの壁のある場所がまた見つかるだろうと思ったが、その後は、どれだけ町の中を回って見ても、あの時入り込んだあの広い公園も、壁打ちテニスをやっていた壁も、不思議なことに、再び見つける事はできなかった。もしかしたらあの壁は、何かの大きな建物を取り壊していた最中だったのかも知れない。だとしたら、今ごろはすっかり、もう何もかも無くなってしまっていて、どれだけ捜しても見つからないという事もありうる訳だが。
2004.12.19 記事公開
次の日の土曜日の朝、おれは自転車に乗って、アパートの周辺の地域を回った。新しいアパートに引っ越して来てからまだ少ししかたっていないので、どこに何があるのかがよく分かっていなかったからだ。
しばらくあちこちを回っているうちに、いつの間にかおれは、自分が知らない広い公園の中に入り込んでいた。こんな広い公園が、自分の住んでいる地域にあったとは知らなかった。と言うか、地図の中にはこんな所はなかったはずなのだが。いつの間に、こんなものができてしまっていたのだろうか。と不思議に思っていると、ポコンポコンと威勢のいい音がどこかから聞こえて来る。何だろうか、と思って音がする方に行ってみると、コンクリートの壁に向かって数人の人たちが壁打ちテニスをやっている。なるほど、これはいいものを見つけた。仕事のストレスを発散するのに、ちょうどいいかも知れない。これから毎週、休みの日はここに来て、壁打ちテニスをやっていようか。と言ってもラケットとボールが無いから、まずそれを買わないといけないが。
◆ しばらくようすを見ていると、時々ボールが壁を越えて飛んで行ってしまう。すると、ボールを打った人が急いで壁の端の方に駆けて行く。壁の裏側に飛んで行ったボールを捜しに行ったようだ。やれやれ、これでは大変だ。やっぱり、ここで壁打ちテニスをするのはやめよう。何だかかえって、ストレスが溜まりそうな予感がする。ところで、この壁の裏側には何があるのだろうか。
ふと、気になったおれは、少し離れた所に自転車を置くと、壁の裏側をのぞきに行ってみた。するとなんと、赤い電車がそこに停まっているではないか。これは、昨夜乗ったあのにこにこ鉄道の電車と同じだ。昨夜とまったく同じで、二両編成になっている。こんな所が、あの電車の車庫になっていたのか。だが、ここのレールは駅までつながってはいないぞ。レールの無い所を電車が駅まで動いて行けるはずはないのだが。
と思って、壁と電車の間の狭い隙間を通り抜けて行ってみると、公園の端から町のごみごみとした住宅街の中をちゃんとレールが通っている。それにしても、ほとんど民家の軒先をかすりそうな所をレールが通っている。と言うか、これではまるで、人家の庭の中を電車の線路が通っているようなものだが。そして、この公園の中に入った所で、線路が切れているという事か。そう言えば、昨日の夜、にこにこ鉄道の電車に乗った時、途中で外が真っ暗な所でしばらく停まっていて、それからまた電車が引き返して行ったようだったが。もしかして、あの電車がしばらく停まっていた場所は、実はここだったのだろうか。だとすると、ここのレールはそのまま、お茶の湯駅までつながっていないといけない事になるのだが。ところで、このレール、よく見るとすっかり錆びついてしまっている。毎日電車が動いているのなら、こんな風にはならないはずだ。と言うことは、昨日の夜、にこにこ鉄道の電車に乗ってやって来た所は、ここじゃなくて、もっと別の所だったのだろうか。どうもよく分からない。
おれは壁の表側に戻ると、自転車に乗って、この電車のレールが本当にお茶の湯駅までつながっているのかどうかを確かめに出かけた。ところが、途中の道があまりにも入り組んでいて、そのうちまったく方向が分からなくなってしまって、そんな事より、自分のアパートにどうやったら戻れるのかが分からなくなって来た。おれは途中、あちらこちらで道を尋ねて、やっと大きい通りに出る事ができた。
◆ いったい、にこにこ鉄道の電車に乗って行った所は、あそこの公園だったのか、それとも全く別の所だったのだろうか。やっとの事でアパートまで帰り着いたおれは、その事が気になってしかたなくなっていた。それを確かめるために、次の日の日曜日の朝、自転車で再びにこにこ鉄道のお茶の湯駅に行ってみた。するとなんと、金曜日の夜には駅があったはずの場所が、立ち入り禁止の工事現場になっている。駅のプラットホームの屋根はすでに取り去られて、電車のレールも無くなっている。これって、昨日のうちにここまで撤去作業をやってしまったのだろうか。金曜日の夜には、ちゃんと駅も改札口もあって、電車にも乗れたんだから。たった一日で、ここまでやってしまうとは。 おれはしばらく、あ然とした。
もしかして、にこにこ鉄道の敷地は、みんなこうやって撤去されては、次々と町の公園になって行っているのだろうか。おれはふと、そう思った。昨日、自転車で町の中を回っていた時に、知らない間に入り込んでいた、あの広い公園。あそこはもとは、にこにこ鉄道の車庫だった所なのかも知れない。そうすると、おれが金曜日の夜に乗った赤い電車は、にこにこ鉄道のレールが完全に撤去される前の、最後の電車だったのか。それにしても、高校の時の同級生とそっくりの人をその最後の電車の中で見かけたとは、何とも不思議な感じがするが。
もう一度、あの赤い電車に乗ってみる事はできないのだろうか。ぼんやりとおれは、そんな事を考えていた。そしてあの、同級生とそっくりだったあの人に、もう一度会ってみたいものだ。そして今度は、乗客が全員降りてしまった後も、あの人が真っ暗になってしまった回送電車の中にそのまま残っていたように、おれも電車の中に残って、あの電車がその後、どんな所に行ったのかを確かめてみたいものだ。だが、もう、そんなこともできなくなった。
そんなことをとりとめもなく考えているうちに、あの最後の電車は、自分たちが降りた後、車庫になっていたはずのあの壁打ちテニスの壁の裏側に戻って行って、そこにずっと停まっていたのだ、という事に気がついた。つまり、あの公園のあの壁の裏に停まっていたあの赤い電車が、あの日の夜に、にこにこ鉄道のすべてが終わった後で、あの同級生を乗せて行った電車だったのだ。もう一度、あそこに行ってみなくては。しかし、昨日、どういう道をたどって、あの壁のある場所まで行ったのだったか、不思議な事にまるで何も思い出せない。
アパートに帰って来たおれは、町の地図をじっくりと見た。お茶の湯駅が、にこにこ鉄道の終着駅であった事は地図を見て分かったが、その途中は町の中の細い道が複雑に入り組んだ所を線路が通っていて、いったい、昨日入り込んだあの広い公園が、地図の中のどのあたりになるのだか、まったく見当がつかない。やれやれ、地図で調べてみても、あの壁打ちテニスをやっていた場所がまったく分からないと言うことか。
◆ そのうち、あの壁のある場所がまた見つかるだろうと思ったが、その後は、どれだけ町の中を回って見ても、あの時入り込んだあの広い公園も、壁打ちテニスをやっていた壁も、不思議なことに、再び見つける事はできなかった。もしかしたらあの壁は、何かの大きな建物を取り壊していた最中だったのかも知れない。だとしたら、今ごろはすっかり、もう何もかも無くなってしまっていて、どれだけ捜しても見つからないという事もありうる訳だが。
2004.12.19 記事公開
夜汽車 3 再会
◆ しばらくたった、ある金曜日。おれは風邪気味で、会社に出勤はしたものの、昼食の後、急に体の具合が悪くなって来たので、やむなく早退することにした。
帰りの電車の中で、電車を降りてから自転車に乗ってアパートまでの長い道のりを漕いで帰るのはつらいな、と何となくぼんやりと考え込んでいるうちに、うっかり降りる駅を乗り越してしまっていた。しかたなく、次の駅で電車を降りて、逆方向の電車が来るのを待っていたところ、間もなく電車が入って来ます、と言うアナウンスがホームに流れてベンチから立ち上がったところで、ふと見ると、駅の階段を大急ぎで上って来る女の人がいて、顔つきや体つきがあの高校時代の同級生によく似ている。もしかして、以前の金曜日の夜に、にこにこ鉄道の赤い電車の中で見かけたのは、あの人じゃなかったのか。と思ったところで、ホームに電車が入って来た。あの人も自分と同じ電車に乗るのだろうか、と思って見ると、そうじゃなくてホームの反対側に立っている。しかたがない。せっかくまた出会えたと言うのに、何とも残念な事だが、おれは帰りの電車に乗った。ホームにベルが鳴って、ドアが閉まる直前におれは、そうだった、と気がついて乗った電車から飛び出した。明日は仕事が休みの土曜日だった。もし、熱がひどくなったら、明日と明後日の二日間はアパートの部屋でずっと寝ていればいい。せっかくここでまた出会えたのだから、これからあの人が一体、どこへ行くのか、後をついて行ってみよう。
結局、おれは、その女の人と同じ電車に乗ってしまった。あいにく座席が空いていなくて、ずっと立ちっ放しだった。いったい、あの人はどこの駅で降りるのだろうか。このまま行くと、あの人が住んでいるであろう所まで、ずっとついて行くことになってしまうのだろうか。などと思っていたが、いつまでたっても女の人は、座席から立ち上がらない。とうとう、電車の終点まで来てしまった。ひょっとしてここから、更に別の電車に乗り換えるのだろうか。これでは、どこまでついて行ってもきりが無い。いい加減、この辺で終わりにしないと、おれもだんだん体がしんどくなって来た。
◆ 乗客が皆、降りて行くので、おれも電車から降りようと思って見ると、女の人はずっと座席に腰掛けたままで、立ち上がろうともしない。かと言って、居眠りをしているわけでもない。ちゃんと目を開けて、窓の外のホームのようすを見ている。あれれ、何だろう、この人は。このままこの電車にずっと乗っているつもりなのだろうか。と思っていると、女の人と自分以外には、電車の中には誰もいなくなってしまって、中に入って来る人もいない。しばらくすると、この電車はこのまま車庫に入りますのでご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえた。あの女の人、もしかして、耳が聞こえないのか。などと思っていると、開いているドアから駅員が、
「お客さん!!急いで降りてください!!」
と、おれに向かって大声で叫んだので、おれはびっくりして電車のドアからホームに飛び出した。おれが電車から出ると、すぐにドアが閉まった。あの女の人はどうしたんだろう、と思って見ると、ホームに出たようすも無い。まだ電車の中に残っているのだろうか、と思った時には電車が動き始めていて、中にいるのかいないのかよく見届けられないうちに、電車が走り去って行ってしまった。何ともあっけない幕切れだった。
おれはしかたなく、ホームの反対側に停まっている帰りの電車に乗った。座席に腰掛けたところで、なぜあの女の人に話しかけてみなかったのだろうか。もしかして本山美香さんじゃありませんか、と一言話しかければよかった。そうすれば、あの人が、本人なのか、それともまったくの別人なのか、ぐらいの事はすぐに分かったはずなのだ。本当におれは臆病な人間だな、とつくづくと思った。
◆ ホームにベルが鳴って、今度こそ本当に、自分の家に帰ることになる電車が出発しようとする時、一人の女の人があわてて電車の中に駆け込んで来て、おれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛けた。何だかこの人、変な人だな。と思っていると、座席に腰掛けた後も、電車の中をあちこちきょろきょろと見回している。しばらくすると突然、立ち上がってどこかへ行ってしまった。ああ、やっといなくなった、と思っておれはほっとした。ところがしばらくたつと、またその人が戻って来て、またおれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛ける。まいった。早く降りたい。そう思っていると、再び女の人は立ち上がって、また電車の中のどこかに行ってしまった。あの女、またここに戻って来るな。やれやれ。と思っていると、そのうちいつまでたっても戻って来なくなった。
しばらくしておれは、あと幾つ目の駅で降りたらいいのだろうか、とふと思って、電車の中のアナウンスを聞いたが、次に停まる駅の名前を聞いても、どのあたりなのかさっぱり分からない。何かおかしい。本当におれの降りる駅まで行くのか、この電車は。
おれは立ち上がって、電車の中に貼ってある路線図を見た。ところが、車内のアナウンスで言っている駅が、どこにも無い。いったい、どこを走っているのだ。と思っていると突然、窓の外が真っ暗になって、電車の音が急にうるさくなった。ありゃりゃ、まいった。いつの間にか地下鉄になってしまっている、この電車。さっきまで地面の上を走っていたのに。
おれは、あわてふためいた。そして、やっと分かって来た。さっきの女の人が立ったり座ったり、そわそわしていた時に電車がしばらく停まっていた駅で、車両の切り離しをしていたのだ。それで、前の方の車両だけが地下鉄になってしまった。あの時、後ろの車両に移らないといけなかったのだが、あの女の人に気を取られてしまっていて、車内のアナウンスを聞き逃してしまったのだ。
◆ やむをえん。すぐ次の駅で降りて、電車の切り離しをした駅まで、またいったん戻らないといけない。しかし、よりによって風邪で頭が割れるように痛い時に、なんでこんな災難に遭わなければならないのだろうか。
おれは次の駅で降りようとしたが、見るとプラットホームは片側の線路だけで、反対側の線路のホームが見当たらない。これってもしかして、地下鉄の駅の構内の、迷路のようになっている通路を通り抜けて行かないと、反対側の線路のあるホームにたどり着かないのか。それだったら、ここは乗り越しだ。
おれは、更にその次の駅で降りる事にした。そのうち、小便がしたくて我慢ができなくなって来た。次の駅は、よりによって何とも薄暗くて寂れた駅だった。電車が停まってドアが開くと、おれは飛び出すように電車の外に出た。そしてすぐに、ホームにいる駅員に、トイレはどこかと聞くと、困った顔をして、ホームにはトイレは無いので、いったん改札口を出てから、駅のトイレを使ってくれ、と言う。それは困る。おれの持っている定期券では、この駅の改札口を出る事はできないのだ。困り果てていると、たまたま通りかかった乗客が、トイレならあそこにあるぞ、と場所を教えてくれた。すぐに、教えられた通りにホームの端の方まで行くと、急にものすごい突風が前方から吹き荒れて来て、おれは目を開けていられなくなって、後ろ向きになってそのままその場に立ちすくんだ。しばらくして風が止んで、前方を振り返って見ると、ここから少し先にトイレがあります、と言う表示が出ている。なんだ、ちゃんとホームにもトイレがあるじゃないか。どうして、さっきの駅員は教えてくれなかったのだろう。と思いながらおれは、標識に書いてある通りに、薄暗くて狭い通路の中を入って行った。
◆ しばらく歩いて行くと、小さな灯りのついたトイレがやっと見つかった。おれはほっとした。トイレで用を済ませてから、手を洗おうとして水道の蛇口をひねったが、水が出ない。もしかして、使ってはいけなかったのか、ここのトイレは。さっきの駅員が、困った顔をして教えてくれなかった理由が分かった。
おれは、トイレを出てホームに戻ろうとしたが、まわりが暗くて、どこを通ってここまで来たのかがよく分からない。確かこっちの方だった、と思って狭い通路を歩いていると、途中でドアの隙間から灯りが漏れている所がある。さっきここを通った時には、こんな所は無かったのだが。もしかして、戻る方向を間違えたのだろうか。と思ったおれは、ここの部屋の中にだれかがいたら聞いてみようと思って、思い切ってドアをノックしてみたが、何の返事も無い。そこでおれはそっと取っ手を回して、ドアをほんの少しだけ開けてみた。するとそのとたん、
「どうぞ、お入りください。」
と言う、女の人の声が中から聞こえたので、おれはびっくりして心臓が止まりそうになった。
◆ 恐る恐るドアを開けて中に入ると、急に部屋の中が明るくなった。どこに人がいるのだろうか、と見回してみると、狭い部屋の隅の方に女の人が立っている。と言うか、本山美香じゃないか、この人は。おれは仰天するほど驚いたが、女の人はきょとんとした顔をしている。
「本山美香さんじゃないですか。」
思わずおれがそう言ったとたん、女の人が別の人の顔に見えて来た。女の人は、ぼんやりとした眼差しでしばらくおれの方を見つめていたが、やがて薄っすらと微笑むと、
「どなたですか、あなたは?」
と、冷たく聞き返した。ああ、やっぱり人違いだったのか。確かに、はじめ見た瞬間は、もしかして本人かと思ったが、よく見ると、全然違う、別の人だった。ええい、もう、どうでもいい。と思って、おれはそのまま続けた。
「高校の時の同級生の中山次郎ですよ。」
「中山次郎さん?そんな人、いましたかねえ。」
しまった。高校生の時の本山美香は、全然こんな感じじゃなかったから、これはもう、まったくの別人だ。人違いだったと気がつきながら、ついつい余計な事を言ってしまった。どうなっているんだ、きょうのおれは。
ところが、その後、しばらくして、
「ああ、やっと思い出しました。」
とか言って、女の人が目を大きく見開いて、おれの顔をつくづくと見つめた。そして、ぽつりと言った。
「あなた、まだ、生きていたんですね。」
その時の、まるで思ってもいなかった言葉に、おれは驚いた。一瞬、女の人が恐ろしい視線でおれをにらみつけているのを感じたが、すぐにまたぼんやりとした眼差しに戻っていた。女の人は続けて言った。
「やっと幸せになることができました。」
女の人はそう言うと、にっこりと笑った。ところで、あなたはどうしてこんな所にいるのですか。と、おれは本当はその時、聞いてみたかったのだが、あなたこそどうしてこんな所にやって来たのですか、と逆に自分が問い詰められそうな気がして、おれはいい言葉を見つけられずに黙っていた。女の人は話し続けた。
「生きていた時は、苦痛の毎日でした。」
これって、自分は死んでしまった後の幽霊だ、とおれに向かってわざわざ宣言しているのだろうか。もしかして、病気の苦痛からやっと開放された、とでも言っているのだろうか。何だかそういう事じゃなくて、もっと別のことを言っているような気もするが。
「どうして今は、幸せなんですか。」
相手の言っていることがよく理解できなくて、ついついおれがそう尋ねると、女の人は再び、ささやかな笑みを口元に浮かべて答えた。
「永遠の苦しみの世界に入ることができたからです。」
何だかおかしいぞ、この女。さっきから、言っている事が全然つながっていないじゃないか。こいつ、まともな人間じゃないぞ。などと思っているうちにだんだんと、頭の痛みが激しくなって来て、とうとうおれは立っているのが我慢できないくらいになった。
「何をわけの分からない事ばかり、さっきから言っているんだ。いったい、おまえは幽霊なのか、化け物なのか、それとも人間なのか。さっさと、はっきりしろ。」
急に頭が切れてしまったおれは、我知らず乱暴な言葉を思わず、吐いてしまった。すると女の人は、とたんに青ざめた顔をしてうつむいた。しばらくすると、しくしくと泣き声が聞こえて来て、そのうち大粒の涙がぽたぽたと床に落ち始めた。そしてとうとう屈み込んで、うめくように泣き崩れてしまった。
こんな幽霊っているのか。と言うか、そんなことはともかくとして、なんでおれがこんな所で、こんな馬鹿なやつの相手をしていないといけないんだ。風邪で頭が痛くて、今ごろはとっくに、アパートに帰って寝ているはずだったのに、なんでおれはこんな所に今いるのか。おれは、自分で自分に腹が立って来た。もういい。この女が幽霊なのか、化け物なのか、人間なのか。そんな事はもう、どうでもいい事だ。今やるべき事は、すぐに、アパートの自分の部屋に帰って寝ることだ。
おれは心に決めると、女の屈んでいる狭い部屋を出た。そして、むしょうに腹が立ったので、叩きつけるようにドアを閉めた。おれはホームに戻る通路を歩き始めた。そのとたん、頭の割れるような激しい痛みが襲って来た。
2004.12.24 記事公開
帰りの電車の中で、電車を降りてから自転車に乗ってアパートまでの長い道のりを漕いで帰るのはつらいな、と何となくぼんやりと考え込んでいるうちに、うっかり降りる駅を乗り越してしまっていた。しかたなく、次の駅で電車を降りて、逆方向の電車が来るのを待っていたところ、間もなく電車が入って来ます、と言うアナウンスがホームに流れてベンチから立ち上がったところで、ふと見ると、駅の階段を大急ぎで上って来る女の人がいて、顔つきや体つきがあの高校時代の同級生によく似ている。もしかして、以前の金曜日の夜に、にこにこ鉄道の赤い電車の中で見かけたのは、あの人じゃなかったのか。と思ったところで、ホームに電車が入って来た。あの人も自分と同じ電車に乗るのだろうか、と思って見ると、そうじゃなくてホームの反対側に立っている。しかたがない。せっかくまた出会えたと言うのに、何とも残念な事だが、おれは帰りの電車に乗った。ホームにベルが鳴って、ドアが閉まる直前におれは、そうだった、と気がついて乗った電車から飛び出した。明日は仕事が休みの土曜日だった。もし、熱がひどくなったら、明日と明後日の二日間はアパートの部屋でずっと寝ていればいい。せっかくここでまた出会えたのだから、これからあの人が一体、どこへ行くのか、後をついて行ってみよう。
結局、おれは、その女の人と同じ電車に乗ってしまった。あいにく座席が空いていなくて、ずっと立ちっ放しだった。いったい、あの人はどこの駅で降りるのだろうか。このまま行くと、あの人が住んでいるであろう所まで、ずっとついて行くことになってしまうのだろうか。などと思っていたが、いつまでたっても女の人は、座席から立ち上がらない。とうとう、電車の終点まで来てしまった。ひょっとしてここから、更に別の電車に乗り換えるのだろうか。これでは、どこまでついて行ってもきりが無い。いい加減、この辺で終わりにしないと、おれもだんだん体がしんどくなって来た。
◆ 乗客が皆、降りて行くので、おれも電車から降りようと思って見ると、女の人はずっと座席に腰掛けたままで、立ち上がろうともしない。かと言って、居眠りをしているわけでもない。ちゃんと目を開けて、窓の外のホームのようすを見ている。あれれ、何だろう、この人は。このままこの電車にずっと乗っているつもりなのだろうか。と思っていると、女の人と自分以外には、電車の中には誰もいなくなってしまって、中に入って来る人もいない。しばらくすると、この電車はこのまま車庫に入りますのでご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえた。あの女の人、もしかして、耳が聞こえないのか。などと思っていると、開いているドアから駅員が、
「お客さん!!急いで降りてください!!」
と、おれに向かって大声で叫んだので、おれはびっくりして電車のドアからホームに飛び出した。おれが電車から出ると、すぐにドアが閉まった。あの女の人はどうしたんだろう、と思って見ると、ホームに出たようすも無い。まだ電車の中に残っているのだろうか、と思った時には電車が動き始めていて、中にいるのかいないのかよく見届けられないうちに、電車が走り去って行ってしまった。何ともあっけない幕切れだった。
おれはしかたなく、ホームの反対側に停まっている帰りの電車に乗った。座席に腰掛けたところで、なぜあの女の人に話しかけてみなかったのだろうか。もしかして本山美香さんじゃありませんか、と一言話しかければよかった。そうすれば、あの人が、本人なのか、それともまったくの別人なのか、ぐらいの事はすぐに分かったはずなのだ。本当におれは臆病な人間だな、とつくづくと思った。
◆ ホームにベルが鳴って、今度こそ本当に、自分の家に帰ることになる電車が出発しようとする時、一人の女の人があわてて電車の中に駆け込んで来て、おれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛けた。何だかこの人、変な人だな。と思っていると、座席に腰掛けた後も、電車の中をあちこちきょろきょろと見回している。しばらくすると突然、立ち上がってどこかへ行ってしまった。ああ、やっといなくなった、と思っておれはほっとした。ところがしばらくたつと、またその人が戻って来て、またおれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛ける。まいった。早く降りたい。そう思っていると、再び女の人は立ち上がって、また電車の中のどこかに行ってしまった。あの女、またここに戻って来るな。やれやれ。と思っていると、そのうちいつまでたっても戻って来なくなった。
しばらくしておれは、あと幾つ目の駅で降りたらいいのだろうか、とふと思って、電車の中のアナウンスを聞いたが、次に停まる駅の名前を聞いても、どのあたりなのかさっぱり分からない。何かおかしい。本当におれの降りる駅まで行くのか、この電車は。
おれは立ち上がって、電車の中に貼ってある路線図を見た。ところが、車内のアナウンスで言っている駅が、どこにも無い。いったい、どこを走っているのだ。と思っていると突然、窓の外が真っ暗になって、電車の音が急にうるさくなった。ありゃりゃ、まいった。いつの間にか地下鉄になってしまっている、この電車。さっきまで地面の上を走っていたのに。
おれは、あわてふためいた。そして、やっと分かって来た。さっきの女の人が立ったり座ったり、そわそわしていた時に電車がしばらく停まっていた駅で、車両の切り離しをしていたのだ。それで、前の方の車両だけが地下鉄になってしまった。あの時、後ろの車両に移らないといけなかったのだが、あの女の人に気を取られてしまっていて、車内のアナウンスを聞き逃してしまったのだ。
◆ やむをえん。すぐ次の駅で降りて、電車の切り離しをした駅まで、またいったん戻らないといけない。しかし、よりによって風邪で頭が割れるように痛い時に、なんでこんな災難に遭わなければならないのだろうか。
おれは次の駅で降りようとしたが、見るとプラットホームは片側の線路だけで、反対側の線路のホームが見当たらない。これってもしかして、地下鉄の駅の構内の、迷路のようになっている通路を通り抜けて行かないと、反対側の線路のあるホームにたどり着かないのか。それだったら、ここは乗り越しだ。
おれは、更にその次の駅で降りる事にした。そのうち、小便がしたくて我慢ができなくなって来た。次の駅は、よりによって何とも薄暗くて寂れた駅だった。電車が停まってドアが開くと、おれは飛び出すように電車の外に出た。そしてすぐに、ホームにいる駅員に、トイレはどこかと聞くと、困った顔をして、ホームにはトイレは無いので、いったん改札口を出てから、駅のトイレを使ってくれ、と言う。それは困る。おれの持っている定期券では、この駅の改札口を出る事はできないのだ。困り果てていると、たまたま通りかかった乗客が、トイレならあそこにあるぞ、と場所を教えてくれた。すぐに、教えられた通りにホームの端の方まで行くと、急にものすごい突風が前方から吹き荒れて来て、おれは目を開けていられなくなって、後ろ向きになってそのままその場に立ちすくんだ。しばらくして風が止んで、前方を振り返って見ると、ここから少し先にトイレがあります、と言う表示が出ている。なんだ、ちゃんとホームにもトイレがあるじゃないか。どうして、さっきの駅員は教えてくれなかったのだろう。と思いながらおれは、標識に書いてある通りに、薄暗くて狭い通路の中を入って行った。
◆ しばらく歩いて行くと、小さな灯りのついたトイレがやっと見つかった。おれはほっとした。トイレで用を済ませてから、手を洗おうとして水道の蛇口をひねったが、水が出ない。もしかして、使ってはいけなかったのか、ここのトイレは。さっきの駅員が、困った顔をして教えてくれなかった理由が分かった。
おれは、トイレを出てホームに戻ろうとしたが、まわりが暗くて、どこを通ってここまで来たのかがよく分からない。確かこっちの方だった、と思って狭い通路を歩いていると、途中でドアの隙間から灯りが漏れている所がある。さっきここを通った時には、こんな所は無かったのだが。もしかして、戻る方向を間違えたのだろうか。と思ったおれは、ここの部屋の中にだれかがいたら聞いてみようと思って、思い切ってドアをノックしてみたが、何の返事も無い。そこでおれはそっと取っ手を回して、ドアをほんの少しだけ開けてみた。するとそのとたん、
「どうぞ、お入りください。」
と言う、女の人の声が中から聞こえたので、おれはびっくりして心臓が止まりそうになった。
◆ 恐る恐るドアを開けて中に入ると、急に部屋の中が明るくなった。どこに人がいるのだろうか、と見回してみると、狭い部屋の隅の方に女の人が立っている。と言うか、本山美香じゃないか、この人は。おれは仰天するほど驚いたが、女の人はきょとんとした顔をしている。
「本山美香さんじゃないですか。」
思わずおれがそう言ったとたん、女の人が別の人の顔に見えて来た。女の人は、ぼんやりとした眼差しでしばらくおれの方を見つめていたが、やがて薄っすらと微笑むと、
「どなたですか、あなたは?」
と、冷たく聞き返した。ああ、やっぱり人違いだったのか。確かに、はじめ見た瞬間は、もしかして本人かと思ったが、よく見ると、全然違う、別の人だった。ええい、もう、どうでもいい。と思って、おれはそのまま続けた。
「高校の時の同級生の中山次郎ですよ。」
「中山次郎さん?そんな人、いましたかねえ。」
しまった。高校生の時の本山美香は、全然こんな感じじゃなかったから、これはもう、まったくの別人だ。人違いだったと気がつきながら、ついつい余計な事を言ってしまった。どうなっているんだ、きょうのおれは。
ところが、その後、しばらくして、
「ああ、やっと思い出しました。」
とか言って、女の人が目を大きく見開いて、おれの顔をつくづくと見つめた。そして、ぽつりと言った。
「あなた、まだ、生きていたんですね。」
その時の、まるで思ってもいなかった言葉に、おれは驚いた。一瞬、女の人が恐ろしい視線でおれをにらみつけているのを感じたが、すぐにまたぼんやりとした眼差しに戻っていた。女の人は続けて言った。
「やっと幸せになることができました。」
女の人はそう言うと、にっこりと笑った。ところで、あなたはどうしてこんな所にいるのですか。と、おれは本当はその時、聞いてみたかったのだが、あなたこそどうしてこんな所にやって来たのですか、と逆に自分が問い詰められそうな気がして、おれはいい言葉を見つけられずに黙っていた。女の人は話し続けた。
「生きていた時は、苦痛の毎日でした。」
これって、自分は死んでしまった後の幽霊だ、とおれに向かってわざわざ宣言しているのだろうか。もしかして、病気の苦痛からやっと開放された、とでも言っているのだろうか。何だかそういう事じゃなくて、もっと別のことを言っているような気もするが。
「どうして今は、幸せなんですか。」
相手の言っていることがよく理解できなくて、ついついおれがそう尋ねると、女の人は再び、ささやかな笑みを口元に浮かべて答えた。
「永遠の苦しみの世界に入ることができたからです。」
何だかおかしいぞ、この女。さっきから、言っている事が全然つながっていないじゃないか。こいつ、まともな人間じゃないぞ。などと思っているうちにだんだんと、頭の痛みが激しくなって来て、とうとうおれは立っているのが我慢できないくらいになった。
「何をわけの分からない事ばかり、さっきから言っているんだ。いったい、おまえは幽霊なのか、化け物なのか、それとも人間なのか。さっさと、はっきりしろ。」
急に頭が切れてしまったおれは、我知らず乱暴な言葉を思わず、吐いてしまった。すると女の人は、とたんに青ざめた顔をしてうつむいた。しばらくすると、しくしくと泣き声が聞こえて来て、そのうち大粒の涙がぽたぽたと床に落ち始めた。そしてとうとう屈み込んで、うめくように泣き崩れてしまった。
こんな幽霊っているのか。と言うか、そんなことはともかくとして、なんでおれがこんな所で、こんな馬鹿なやつの相手をしていないといけないんだ。風邪で頭が痛くて、今ごろはとっくに、アパートに帰って寝ているはずだったのに、なんでおれはこんな所に今いるのか。おれは、自分で自分に腹が立って来た。もういい。この女が幽霊なのか、化け物なのか、人間なのか。そんな事はもう、どうでもいい事だ。今やるべき事は、すぐに、アパートの自分の部屋に帰って寝ることだ。
おれは心に決めると、女の屈んでいる狭い部屋を出た。そして、むしょうに腹が立ったので、叩きつけるようにドアを閉めた。おれはホームに戻る通路を歩き始めた。そのとたん、頭の割れるような激しい痛みが襲って来た。
2004.12.24 記事公開
夜汽車 4 まぼろし
◆ その場でおれは、気を失ってしまった。やがて、夢の中で救急車の音が聞こえて来て、自分が救急車に乗せられて、どこかに運ばれて行くのを感じた。だいぶ時間がたって目を覚ますと、おれは病院のベッドの中で寝ていた。病室の窓のカーテンの間から、朝のまぶしい太陽の光が入って来た。誰が自分をここまで運んで来てくれたのだろうか。たぶん、あの狭い地下鉄の駅の構内の薄暗い通路に倒れていた所を駅員が見つけて、運び出してくれたのだろう。おれはぼんやりと、ベッドの中で考えた。いつの間にか頭痛が消えて、頭の中がすっきりとしていた。さっきまでひどい頭痛だったはずなのに、こんなに簡単に治ってしまっていいものだろうか。
しばらくしておれは、さっきから
「ポコン、ポコン」
と威勢のいい音がどこかから聞こえて来るのに気がついた。ああ、あれは壁打ちテニスをやっている音に違いない。誰かがこの病院の建物の壁に向かって、テニスボールを打っているのだ。そんな事をとりとめもなく考えているうちに、だんだんうとうととして来て、再びおれは眠り込んでしまった。
◆ 激しい風が吹きすさぶ音の中で、やっとおれは目が覚めた。気がついてみるとおれは、アパートの自分の部屋のふとんの中で寝ていた。まさか、何でだ?さっきまで病院のベッドの中で寝ていたはずなのに、いつの間にこんな所に移されたんだ。と言うか、病院がそんな事までしてくれるはずはないから、さっきまで病院のベッドの中で寝ていたのは、実は、夢だったと言うことか。すると、自分が倒れていた所を救急車で運ばれたのも夢だったという事だ。やれやれ、一体どこまでが夢だったのか、わけが分からなくなって来た。
しばらくすると、外の風の音が治まって来た。おれはふとんから立ち上がろうとしたが、その途端、頭の割れるような痛みがして、再びおれはふとんの上に倒れた。くそっ、頭痛が治ったと思ったのも夢だったのか。おれはうめくようにつぶやいた。いったい、誰がアパートのこの部屋まで自分を運んで来てくれたのだろうか。もしかして、自分で自転車を漕いでここまで帰って来ていたのだろうか。どうもよく分からない。
しばらくたって、やっとおれは意を決してふとんから立ち上がると、洗面所へ行って顔を洗い、冷蔵庫の中から飲み物を取り出して飲んだ。気分が悪くて、何も食べる気にならなかった。会社に出かけて行った時の服装のままで、ふとんの中で寝ていたことにやっと気がついた。外はすでに早朝になっていた。今日、病院に行くべきかどうか、どうしようかと迷ったが、寒かったので、行かないことにした。おれはパジャマに着替えると、その日は一日中ふとんの中で寝ていた。
◆ 次の日の日曜日。さすがに腹が減って来たが、冷蔵庫の中にはほとんど何も残っていなかったので、昼前に近くの店に食べ物と飲み物を買いに出かけることにした。おれは着替えるとアパートの部屋を出た。自転車の事が気になっていたので、アパートの裏の自転車置き場に行ってみたが、自分の自転車は無かった。やはり何者かが、おれを車か何かに乗せてこのアパートまで送って来てくれたのだ。一体、誰なのだろうか。おれがこのアパートに住んでいる事を知っている誰かなのだろうが、よく分からない。自分の自転車が、駅前の自転車置き場に今もちゃんとあるのかどうかが心配になって来た。早く行って確かめないと。
店で買い物をしているうちに、また頭が痛くなって来た。きょうはもうこれ以上、外に出ているのは無理だ。早めに買い物を終えてアパートに帰ると、おれはまたふとんの中にもぐった。
◆ 月曜日の朝になると、会社に仕事を欠勤する旨の電話をして、昼前に病院に行った。病院から帰って来てしばらく休んでいると、やっと体が楽になって来たので、今日こそ自分の自転車が駅の自転車置き場にあるかどうかを確かめに行かないといけないと思って、タクシーを呼んで駅まで出かけた。駅前の自転車置き場に行ってみると、自分の自転車がちゃんとそこに残っていた。おれはほっとしたが、自分が金曜日の夜にどうやってアパートまで帰って来たのか、まったく見当がつかなかった。今後、風邪で熱を出した時のために、自分のアパートの近くを通るバスの番号をバス乗り場を回って確かめると、おれは自転車に乗って、やっとアパートへの長い道を帰って行った。ひとまず、おかしな悪夢に区切りをつける事ができたようだったが、地下鉄の駅の構内で倒れていたはずの自分をアパートまで送り届けてくれたのが何者なのかは、まったく分からないままだった。
◆ やっと風邪が治ってから、再び金曜日になった。仕事が終わって帰りの電車に乗ったおれは、あの謎の女と出遭った場所にもう一度行ってみようと思い、再びあの地下鉄の駅へ向かった。ホームに降りて、あの薄暗いトイレに行く通路を捜したら、いつの間にか立ち入り禁止の工事現場になっていて、まわりの壁が全部壊されていた。どうやらあのトイレも、謎の女を見た狭い部屋も、もう無くなってしまったようだった。あのにこにこ鉄道のお茶の湯駅も取り壊されたし、おかしな女と出会った地下鉄の駅の部屋も取り壊された。どうしてなんだろうか。おれはしばらく、ぼんやりとそこに立っていたが、先週の金曜日に、帰りの電車の終着駅から車庫に向かう回送電車に、あの同級生にそっくりの人が乗っていたはずだった事を思い出した。あの電車の車庫まで行ってみたら、何かがあるかも知れない。ふと、そう思いついたおれは、電車に乗ると、そのまま終点の駅まで行った。
電車が終着駅のホームに到着すると、この電車はこのまま車庫に入りますので、ご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえて来た。乗っていた乗客たちが次々と降りて行き、とうとう電車の中はおれ一人になった。その時、なぜかおれは、とっさに電車の床に身を伏せた。窓の外から見えないように、座席の下にぴったりと体を寄せてうつ伏せになった。これでホームの駅員に見つからなければ、このままこの電車の車庫まで行けるはずだ。
すると、しばらくして、隣の車両から誰かがやって来る足音が聞こえて来た。やっぱり甘かったか。駅員が、中に乗客が残っていないかどうかを確かめに回って来たのだ。まずいことになった。おれが気を失って倒れていると勘違いされて、病院に運ばれるかも知れない。どうしたものか。
「おいっ、大変だぞー。」
と言う駅員の叫び声が、今にも聞こえて来そうだった。足音はどんどん近づいて来て、おれがうつ伏せになっているすぐ横を通り過ぎると、そのまま遠ざかって行った。あれれ、どうしたんだろう。と思ってちらりと見ると、通り過ぎて行ったのは駅員ではなくて、ちょっと変わった風貌の中年の男で、電車の網棚に残っている新聞や雑誌をあさっていたのだった。男がちょうど次の車両に移ったところで、何人かの駅員が電車の中に入って来て、男を無理やり外に連れ出すのが聞こえた。そして、しばらくするとドアが閉まり、電車が車庫に向かって動き出した。信じられないほどラッキーだった。あのおかしな男に駅員の注意が集まったので、おれが座席の陰に隠れているのが誰にも気づかれなかったのだ。
電車が走り続けている間、中には人の気配は全くなかった。しばらくすると、やっと車庫に到着したらしく、電車が停まった。そして車内の灯りが消えた。
◆ 一体、電車の外はどうなっているのだろうか。と思って、起き上がって外を見ようとすると、誰かの話し声が聞こえて来る。鉄道の職員が見回りに来たようだ。おれはそのまま身を伏せていた。すると、聞こえて来るのは女の話し声だった。電車の車庫に女の職員なんているのか。と、不思議に思っていると、どうも声は電車の中から聞こえて来る。おれはぎくりとした。おれ以外にも、この電車に乗っていたやつがいたのか。いったい今まで、どこに隠れていたのだ。
話し声はだんだん近づいて来て、何を話しているのか、はっきり聞き取れるくらいになった。
「生きているのってつらいよね。」
「本当ね。一体、どうしたらいいのかしらね。」
こいつらいったい、何者なのだろう。普通の人間は、こう言った会話はしないものだが。
「悟りを開くってのはどう?」
「それって、どうする事なの?悟りを開くとどうなるの?」
「よく分からないけど、永遠の苦しみの世界に入ることができるみたいよ。」
「そんなのより、無我の境地に入った方がいいんじゃない?」
「それって何なの?」
「こっちの方は、永遠に虚しい世界に入ることができるらしいわ。」
「ふうん。あんまりおもしろくなさそうね。」
驚いた。何が言いたいのか、まるでわけが分からん。よく会話が成り立っているな。待てよ、何かこいつらの言っているような事、前にも聞いたことがあるぞ。ええと、どこで聞いたのだったかな。だめだ。さっぱり思い出せない。
おれがあれこれと考えているうちに、話し声はだんだんと遠ざかって行って、そのうち何も聞こえなくなってしまった。やっと立ち上がって、おれは自分のまわりを見回したが、窓の外は真っ暗で、いったい外がどんな場所なのだか、まったく分からない。座席に腰掛けると、ちょうど手元に乗客が残したままの新聞があったので、おれは座席の上で脚を伸ばし、そのまま仰向けになると、新聞紙を広げて腹の上にかぶせた。疲れていたので、そのままうとうとと寝入ってしまった。
◆ いつの間にか眠り込んでしまったおれは、電車の動く音でやっと目を覚ました。座席から起き上がると、まぶしい朝日が目に入った。もう朝になってしまっていたのか。まわりを見回すと、電車の中には自分以外には誰も乗っていない。どうやら車庫から始発の駅に向かう途中のようだ。それにしても、あれから一度も鉄道の職員が電車の中を見回りに来なかったのは、何とも不思議だ。世の中ってこんなものなのか。ぼーっとしたまま座席に腰掛けていると、やがて電車は始発の駅のプラットホームに入って行った。ホームには朝の通勤ラッシュのサラリーマンが列を作って並んでいる。へえー、朝早くからいつもこんなに大勢の人たちが来ているのか。と思ってホームの大きな時計を見ると、八時過ぎだった。何だ、もうこんな時間なのか。ひょっとして、電車が一番混む時間じゃないのか、今は。と思っていると、一斉に開いたドアからどっと大勢の通勤客が入って来て、電車の中はいっぺんに満員の状態になった。まさしく、自分が毎朝、電車に乗って仕事に出かける時とまったく同じ状態だった。と言うことは、自分もこれからこの人たちと一緒に、仕事に出かけて行くのだろうか。と思った時、何だか変な気がして来た。今日ってたしか、土曜日じゃなかったか。おれはふと、自分のすぐ隣に腰掛けている人が開いている新聞をのぞき込んだ。日付が月曜日になっている。ばかな。おれがこの電車に乗ったのは、金曜日の夜だったはず。そのまま土曜、日曜とまる二日間ずっとこの電車の中で眠っていたのか。そんなはずは無い。おかしい。
おかしい、おかしい、と思いながら、周りの乗客をよく見てみると、どうも、普段着というか、会社に仕事で出かける時とは、何か違う服装の人が多くて、家族連れも多い。平日の出勤時なら、こんな乗客は少ないはずだ。ということは、きょうはやっぱり、土曜日なんじゃないのか。だんだん、そんな気がして来て、おれはもう一度、隣の人が開いている新聞をのぞき込もうとした。すると、そのとたん、隣の人は読んでいた新聞を俺に向かって思いっ切り叩きつけると、立ち上がって、電車の外に出て行ってしまった。俺が何度も新聞をのぞき込もうとしたので、あの人を怒らせてしまったようだ。なんか、まずい事をしてしまったな、と一瞬、落ち込んだが、周りの乗客が別に気にしていないようなので、おれは新聞を拾い上げて、日付を見た。すると、さっきは確かに月曜日になっていたのに、よく見てみると金曜日になっている。つまり、あの人がずっと見ていたのは昨日の新聞だったのだ。それでおれは、やっと分かった。これは、昨夜、おれが毛布の代わりに使った新聞だ。あいつ、人の持っていた新聞を勝手に取り上げて読んでいたのか。おれが、何度ものぞき込むので、きまりが悪くなって、逃げ出して行ったのだ。
なんだ、そう言う事だったのか。と思ったおれは、大事な事をやっと思い出した。そうだった。おれがわざわざこんな所まで来たのは、電車の車庫に何があるのか、確かめる為だった。ところが、眠り込んでいる間に、車庫を出て始発の駅まで来てしまっていた。いったい、どうすればいいんだ・・・。と思ったその時、
◇◇ きゃあーっ、だれかいるーっ ◇◇
と言う、ものすごく大きな女の叫び声が、電車の奥の方から聞こえて来た。
2005.01.26 記事公開 2020.09.29 記事修正
しばらくしておれは、さっきから
「ポコン、ポコン」
と威勢のいい音がどこかから聞こえて来るのに気がついた。ああ、あれは壁打ちテニスをやっている音に違いない。誰かがこの病院の建物の壁に向かって、テニスボールを打っているのだ。そんな事をとりとめもなく考えているうちに、だんだんうとうととして来て、再びおれは眠り込んでしまった。
◆ 激しい風が吹きすさぶ音の中で、やっとおれは目が覚めた。気がついてみるとおれは、アパートの自分の部屋のふとんの中で寝ていた。まさか、何でだ?さっきまで病院のベッドの中で寝ていたはずなのに、いつの間にこんな所に移されたんだ。と言うか、病院がそんな事までしてくれるはずはないから、さっきまで病院のベッドの中で寝ていたのは、実は、夢だったと言うことか。すると、自分が倒れていた所を救急車で運ばれたのも夢だったという事だ。やれやれ、一体どこまでが夢だったのか、わけが分からなくなって来た。
しばらくすると、外の風の音が治まって来た。おれはふとんから立ち上がろうとしたが、その途端、頭の割れるような痛みがして、再びおれはふとんの上に倒れた。くそっ、頭痛が治ったと思ったのも夢だったのか。おれはうめくようにつぶやいた。いったい、誰がアパートのこの部屋まで自分を運んで来てくれたのだろうか。もしかして、自分で自転車を漕いでここまで帰って来ていたのだろうか。どうもよく分からない。
しばらくたって、やっとおれは意を決してふとんから立ち上がると、洗面所へ行って顔を洗い、冷蔵庫の中から飲み物を取り出して飲んだ。気分が悪くて、何も食べる気にならなかった。会社に出かけて行った時の服装のままで、ふとんの中で寝ていたことにやっと気がついた。外はすでに早朝になっていた。今日、病院に行くべきかどうか、どうしようかと迷ったが、寒かったので、行かないことにした。おれはパジャマに着替えると、その日は一日中ふとんの中で寝ていた。
◆ 次の日の日曜日。さすがに腹が減って来たが、冷蔵庫の中にはほとんど何も残っていなかったので、昼前に近くの店に食べ物と飲み物を買いに出かけることにした。おれは着替えるとアパートの部屋を出た。自転車の事が気になっていたので、アパートの裏の自転車置き場に行ってみたが、自分の自転車は無かった。やはり何者かが、おれを車か何かに乗せてこのアパートまで送って来てくれたのだ。一体、誰なのだろうか。おれがこのアパートに住んでいる事を知っている誰かなのだろうが、よく分からない。自分の自転車が、駅前の自転車置き場に今もちゃんとあるのかどうかが心配になって来た。早く行って確かめないと。
店で買い物をしているうちに、また頭が痛くなって来た。きょうはもうこれ以上、外に出ているのは無理だ。早めに買い物を終えてアパートに帰ると、おれはまたふとんの中にもぐった。
◆ 月曜日の朝になると、会社に仕事を欠勤する旨の電話をして、昼前に病院に行った。病院から帰って来てしばらく休んでいると、やっと体が楽になって来たので、今日こそ自分の自転車が駅の自転車置き場にあるかどうかを確かめに行かないといけないと思って、タクシーを呼んで駅まで出かけた。駅前の自転車置き場に行ってみると、自分の自転車がちゃんとそこに残っていた。おれはほっとしたが、自分が金曜日の夜にどうやってアパートまで帰って来たのか、まったく見当がつかなかった。今後、風邪で熱を出した時のために、自分のアパートの近くを通るバスの番号をバス乗り場を回って確かめると、おれは自転車に乗って、やっとアパートへの長い道を帰って行った。ひとまず、おかしな悪夢に区切りをつける事ができたようだったが、地下鉄の駅の構内で倒れていたはずの自分をアパートまで送り届けてくれたのが何者なのかは、まったく分からないままだった。
◆ やっと風邪が治ってから、再び金曜日になった。仕事が終わって帰りの電車に乗ったおれは、あの謎の女と出遭った場所にもう一度行ってみようと思い、再びあの地下鉄の駅へ向かった。ホームに降りて、あの薄暗いトイレに行く通路を捜したら、いつの間にか立ち入り禁止の工事現場になっていて、まわりの壁が全部壊されていた。どうやらあのトイレも、謎の女を見た狭い部屋も、もう無くなってしまったようだった。あのにこにこ鉄道のお茶の湯駅も取り壊されたし、おかしな女と出会った地下鉄の駅の部屋も取り壊された。どうしてなんだろうか。おれはしばらく、ぼんやりとそこに立っていたが、先週の金曜日に、帰りの電車の終着駅から車庫に向かう回送電車に、あの同級生にそっくりの人が乗っていたはずだった事を思い出した。あの電車の車庫まで行ってみたら、何かがあるかも知れない。ふと、そう思いついたおれは、電車に乗ると、そのまま終点の駅まで行った。
電車が終着駅のホームに到着すると、この電車はこのまま車庫に入りますので、ご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえて来た。乗っていた乗客たちが次々と降りて行き、とうとう電車の中はおれ一人になった。その時、なぜかおれは、とっさに電車の床に身を伏せた。窓の外から見えないように、座席の下にぴったりと体を寄せてうつ伏せになった。これでホームの駅員に見つからなければ、このままこの電車の車庫まで行けるはずだ。
すると、しばらくして、隣の車両から誰かがやって来る足音が聞こえて来た。やっぱり甘かったか。駅員が、中に乗客が残っていないかどうかを確かめに回って来たのだ。まずいことになった。おれが気を失って倒れていると勘違いされて、病院に運ばれるかも知れない。どうしたものか。
「おいっ、大変だぞー。」
と言う駅員の叫び声が、今にも聞こえて来そうだった。足音はどんどん近づいて来て、おれがうつ伏せになっているすぐ横を通り過ぎると、そのまま遠ざかって行った。あれれ、どうしたんだろう。と思ってちらりと見ると、通り過ぎて行ったのは駅員ではなくて、ちょっと変わった風貌の中年の男で、電車の網棚に残っている新聞や雑誌をあさっていたのだった。男がちょうど次の車両に移ったところで、何人かの駅員が電車の中に入って来て、男を無理やり外に連れ出すのが聞こえた。そして、しばらくするとドアが閉まり、電車が車庫に向かって動き出した。信じられないほどラッキーだった。あのおかしな男に駅員の注意が集まったので、おれが座席の陰に隠れているのが誰にも気づかれなかったのだ。
電車が走り続けている間、中には人の気配は全くなかった。しばらくすると、やっと車庫に到着したらしく、電車が停まった。そして車内の灯りが消えた。
◆ 一体、電車の外はどうなっているのだろうか。と思って、起き上がって外を見ようとすると、誰かの話し声が聞こえて来る。鉄道の職員が見回りに来たようだ。おれはそのまま身を伏せていた。すると、聞こえて来るのは女の話し声だった。電車の車庫に女の職員なんているのか。と、不思議に思っていると、どうも声は電車の中から聞こえて来る。おれはぎくりとした。おれ以外にも、この電車に乗っていたやつがいたのか。いったい今まで、どこに隠れていたのだ。
話し声はだんだん近づいて来て、何を話しているのか、はっきり聞き取れるくらいになった。
「生きているのってつらいよね。」
「本当ね。一体、どうしたらいいのかしらね。」
こいつらいったい、何者なのだろう。普通の人間は、こう言った会話はしないものだが。
「悟りを開くってのはどう?」
「それって、どうする事なの?悟りを開くとどうなるの?」
「よく分からないけど、永遠の苦しみの世界に入ることができるみたいよ。」
「そんなのより、無我の境地に入った方がいいんじゃない?」
「それって何なの?」
「こっちの方は、永遠に虚しい世界に入ることができるらしいわ。」
「ふうん。あんまりおもしろくなさそうね。」
驚いた。何が言いたいのか、まるでわけが分からん。よく会話が成り立っているな。待てよ、何かこいつらの言っているような事、前にも聞いたことがあるぞ。ええと、どこで聞いたのだったかな。だめだ。さっぱり思い出せない。
おれがあれこれと考えているうちに、話し声はだんだんと遠ざかって行って、そのうち何も聞こえなくなってしまった。やっと立ち上がって、おれは自分のまわりを見回したが、窓の外は真っ暗で、いったい外がどんな場所なのだか、まったく分からない。座席に腰掛けると、ちょうど手元に乗客が残したままの新聞があったので、おれは座席の上で脚を伸ばし、そのまま仰向けになると、新聞紙を広げて腹の上にかぶせた。疲れていたので、そのままうとうとと寝入ってしまった。
◆ いつの間にか眠り込んでしまったおれは、電車の動く音でやっと目を覚ました。座席から起き上がると、まぶしい朝日が目に入った。もう朝になってしまっていたのか。まわりを見回すと、電車の中には自分以外には誰も乗っていない。どうやら車庫から始発の駅に向かう途中のようだ。それにしても、あれから一度も鉄道の職員が電車の中を見回りに来なかったのは、何とも不思議だ。世の中ってこんなものなのか。ぼーっとしたまま座席に腰掛けていると、やがて電車は始発の駅のプラットホームに入って行った。ホームには朝の通勤ラッシュのサラリーマンが列を作って並んでいる。へえー、朝早くからいつもこんなに大勢の人たちが来ているのか。と思ってホームの大きな時計を見ると、八時過ぎだった。何だ、もうこんな時間なのか。ひょっとして、電車が一番混む時間じゃないのか、今は。と思っていると、一斉に開いたドアからどっと大勢の通勤客が入って来て、電車の中はいっぺんに満員の状態になった。まさしく、自分が毎朝、電車に乗って仕事に出かける時とまったく同じ状態だった。と言うことは、自分もこれからこの人たちと一緒に、仕事に出かけて行くのだろうか。と思った時、何だか変な気がして来た。今日ってたしか、土曜日じゃなかったか。おれはふと、自分のすぐ隣に腰掛けている人が開いている新聞をのぞき込んだ。日付が月曜日になっている。ばかな。おれがこの電車に乗ったのは、金曜日の夜だったはず。そのまま土曜、日曜とまる二日間ずっとこの電車の中で眠っていたのか。そんなはずは無い。おかしい。
おかしい、おかしい、と思いながら、周りの乗客をよく見てみると、どうも、普段着というか、会社に仕事で出かける時とは、何か違う服装の人が多くて、家族連れも多い。平日の出勤時なら、こんな乗客は少ないはずだ。ということは、きょうはやっぱり、土曜日なんじゃないのか。だんだん、そんな気がして来て、おれはもう一度、隣の人が開いている新聞をのぞき込もうとした。すると、そのとたん、隣の人は読んでいた新聞を俺に向かって思いっ切り叩きつけると、立ち上がって、電車の外に出て行ってしまった。俺が何度も新聞をのぞき込もうとしたので、あの人を怒らせてしまったようだ。なんか、まずい事をしてしまったな、と一瞬、落ち込んだが、周りの乗客が別に気にしていないようなので、おれは新聞を拾い上げて、日付を見た。すると、さっきは確かに月曜日になっていたのに、よく見てみると金曜日になっている。つまり、あの人がずっと見ていたのは昨日の新聞だったのだ。それでおれは、やっと分かった。これは、昨夜、おれが毛布の代わりに使った新聞だ。あいつ、人の持っていた新聞を勝手に取り上げて読んでいたのか。おれが、何度ものぞき込むので、きまりが悪くなって、逃げ出して行ったのだ。
なんだ、そう言う事だったのか。と思ったおれは、大事な事をやっと思い出した。そうだった。おれがわざわざこんな所まで来たのは、電車の車庫に何があるのか、確かめる為だった。ところが、眠り込んでいる間に、車庫を出て始発の駅まで来てしまっていた。いったい、どうすればいいんだ・・・。と思ったその時、
◇◇ きゃあーっ、だれかいるーっ ◇◇
と言う、ものすごく大きな女の叫び声が、電車の奥の方から聞こえて来た。
2005.01.26 記事公開 2020.09.29 記事修正
夜汽車 5 地平線
◆ やっとおれは目が覚めた。電車の中はまだ真っ暗で、外は夜明け前でうっすらと空が明るくなりかけていた。起き上がってみると、隣の車両を懐中電灯の明かりが遠ざかって行くのが見えた。しまった。やっぱり、鉄道の職員が見回りに来たのだ。すぐに、ここから逃げ出さないと。ところが電車のドアはしっかりと閉まっている。やむを得ん。窓から逃げるしかない。おれは電車の窓を開けようとしたが、慌てふためいていたので、なかなかうまく窓が開かない。ちくしょう、なんでさっさと開かないんだ。俺は自分で自分を罵りながら、なんとか窓を開けたが、その時、隣の車両から二つの明かりがこちらに向かって来るのが見えた。さっきの女の職員が仲間を連れて来たのだ。だめだ。もう、時間が無い。
おれは、窓から出るのを諦めて、急いで車両の一番奥の座席の陰に隠れた。すぐに、反対側の車両から二つの明かりが入って来た。
「あれっ、いなくなってる。さっきまでここで、新聞紙を被って寝ていたのに。」
「窓が開いてる。きっと、ここから逃げたんだわ。」
「あっ、見て見て。あそこを男が走って行く。きっと、あの男よ。」
「間違いない。急いで追いかけましょう。」
そう言うと、車両のドアが開く音がして、二人の女の職員が外へ飛び出して行った。
そっと起き上がって、窓の外を見ると、二つの明かりが真っ暗な闇の中を遠ざかって行くのが見えた。あの二人、本当に誰かを追いかけているみたいだ。いったい、誰を追いかけてるんだ。あ、そんな事はどうでもいい。すぐに、ここから逃げ出さないと。俺は急いで、二人の女が出て行ったドアから外に出ると、車両の下を潜って、線路の反対側に出て、そのまま闇の中を走り始めた。二人の女は向こう側を走って行ったから、おれがこちらに逃げて来た事は気づいていないはずだ。おれは夢中になって走り続けた。途中、林みたいな所や畑みたいな所を走り抜け、ようやく空が明るくなりかけた頃には、知らない町の中を走っていた。
◆ おれより先に電車から逃げて行ったらしい男は、いったい誰なんだ・・・。いつの間にか、歩きながらおれは考えていた。やっとのことで、電車の車庫まで来れたのに、真っ暗で、どんな所なのかも分からないまま逃げて来てしまった。おれはそこで、はっと立ち止まった。何をやっているのだ、お前は。すぐに車庫まで引き返して、そこがどんな所なのかを確かめないと。おれは歩いて来た道を引き返した。
しばらくすると、見晴らしが良くなって、周りに高い建物が無くなって来て、やがて周りは、地面がずっと真っ平らな延々と続く平地になって行った。あれっ、電車の車庫ってこんなところだったか。ひょっとして、飛行場だったのか、ここは。青い空を見上げると、白い雲が円盤のように見える。今にも、空飛ぶ円盤がここに舞い降りて来そうな気がした。まるで地平線に向かって歩いているかのように、どれだけ歩き続けて行っても周りの景色は、何一つ変わって行かない。一体、どこまで歩いて行けばいいのだろうか。と言うか、電車の線路がどのあたりを通っているのかさえ、まったく分からない。周りを見回しても、どこにも電車らしき物は見えないし・・・。
もしかして、歩く方向を間違えているのだろうか。だいぶ歩き続けた所で、やっとおれはそう思った。周りに目印になる物が何も無いので、一体、自分がどんなところにいるのか、まったく見当がつかない。これって要するに、道に迷ったのと同じ事なのか。このまま歩き続けていると、車庫にたどり着けないどころか、夜までにアパートに帰れなくなるかも知れない。
思わずおれは、真っ直ぐ上の空を見上げた。その瞬間、空全体が真っ赤になって、おれはそのまま地面の上に崩れるように倒れた。まるで、ふんわりした雲の上に倒れたような心地がした。いったい、何が起こったのかよく分からなかったが、しばらくして、地面の上に倒れたままでいる自分に気がついた。歩き過ぎて、貧血になって倒れたのだろうか。もしかしたら、このままここで、夜を明かす事になるかも知れない。などと、とりとめの無い事を考えているうちにまた、意識が消えて行った。
◆ それからまた、しばらくして、ものすごい地響きがやって来たので、驚いて周りを見回すと、巨大な戦車のような物が、真っ平らな大地の果てからものすごい速さでこちらに向かってやって来るのが見えた。危ない。このままここで倒れたままでいては、あの戦車に踏み潰されてしまう。急いで走って逃げなくては。ところが、起き上がろうとしても力が抜けて、どうしても起き上がる事が出来ない。
起きろ。起きろ。と必死に叫んでいるところで、やっと目が覚めた。気がつくと、昼をだいぶ過ぎてしまっていた。これはいかん。暗くなり始める前に、どこでもいいから電車の駅を見つけないと、本当にこのまま迷子になってしまう。おれはようやく立ち上がると、今まで歩いて来た道を引き返して行った。
だいぶ歩いた末に、やっと町の中まで戻って来れた。やれやれ、これでなんとか、アパートに帰れるかも知れない。と思ってほっとしていると、どこからか豆腐屋のラッパの音が聞こえて来た。夕方になって、豆腐屋が町の中を回っているのだ。こんな所がまだ残っていたのか。何となく不思議な町だな、ここは。などと思っていると、今度は別の場所からポンポコ、ポンポコと威勢のいい音が聞こえて来た。あっあれは、もしかして壁打ちテニスをやっている音か。しかし何となくテンポが違うな、音は似ているけど。と思いながら歩いていると、町の中のお寺の横に来ていた。そして、ポンポコと言う音と一緒に、お経を読み上げる声が聞こえて来た。そうか、あれは木魚を叩いている音だったのか。町の中を通り過ぎた時、やっと電車の駅を見つけた。本当に疲れた。改札口からプラットホームに上がると、何か見覚えがあるな、と思ったら、回送電車に乗って行った、あの終点の駅だった。
やっとのことで電車に乗って、自分の自転車が置いてあるいつもの駅に着いた時には、脚がくたくたになってまともに歩く事も出来ないくらいになっていた。アパートまで自転車を漕いで帰るのは到底無理な状態だったので、自転車は駅前に置いたままにして、バスに乗って帰った。
◆ 翌日の日曜日は、疲れ切っていたので、一日中、アパートの部屋にいて、月曜日の朝は、バスに乗って駅まで行った。駅の階段を上るのが結構きつかった。
この日は午後になって急な仕事が入ったので、遅くまで残業してから帰った。帰りの電車を降りた時には、駅から出るバスが一時間に一本出るかどうかという時間帯になっていたので、自転車で帰る事にした。駅前の自転車置き場に行って、金曜日の朝からずっと置いたままになっていた自転車にまたがって漕ぎ始めたとたん、脚の筋肉がずっきんずっきんと痛み出した。このまま、この長い道のりを漕いで行くのは無理かもしれない。今夜はやっぱり、バスに乗って帰った方がいいか、と思ったちょうどその時、駅前を出発したばかりのバスが目の前を通り過ぎて行った。ああ、遅かったか。あれに乗ればよかったのだが、あと一時間待たなければ次のバスが来ないのなら、やっぱり今夜は、自転車で帰るしかないか。と言うことで、おれはいつもよりもゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。
◆ しばらくのろのろと自転車を漕いでいると、畑の広がる地帯に出た。やがて、後ろの方から自転車に乗った人達が、何やら話しながら近づいて来るのが聞こえて来た。どうやら二人の女の人が、並んで自転車を漕いでいるようだった。そのうち、のろのろと自転車を漕いでいるおれに二つの自転車が並んで、そして二つの自転車がおれを追い越して行った。その時、二人の女が
「ほんと、生きてるのって辛いよね。」
「いったい、どうしたらいいのかしらね。」
とかなんとか、笑いながら話している声が聞こえた。二人の女は真っ白の服を着ていた。畑の間の道なのに、なんでこんなに明るいのだろうか、と思って空を見たら満月だった。そうか、今夜が満月だったのか、と思ってペダルを漕いでいる自分の足元を見ると、くっきりと自転車の影が地面に映っていた。そう言えば、あのにこにこ鉄道に初めて乗ったのも、満月の夜だったな。何だか不思議な電車だったな、あれは。などと思い出しながらぼんやりと、目の前を遠ざかって行く自転車に乗った二人の女の後ろ姿を眺めた時、はっと思った。あの右側の女、本山美香に似てないか。後ろから見た髪形がそっくりだし、体つきも似ている。もしかして、今まで何度か出会った謎の女か、あいつらは。
とっさにおれは、二人の女の後をつけて行こうと思い立った。ところがあの二人、意外と自転車を漕ぐのが速い。と言うか、おれの方が遅すぎるのだが。このままではそのうち、あの二人を見失ってしまう。もっと速く漕がなくては。おれはペダルを漕ぐ脚に力を入れた。段々、ももの筋肉の痛みが激しくなって来た。前の方を走っていた二人の女が、急に道を曲がって、そのまま脇道に入って行った。おれのアパートへの帰り道とは方向が違っていた。おれも二人の後を追って、同じ道を曲がった。
曲がったとたんに、おれは自転車を止めてしまった。狭くて曲がりくねった道が、目の前に続いていた。おれは今まで、駅からアパートまでの一筋の道以外には、このあたりのほかの道は通った事がないのだ。夜中にこんな脇道へ入って行ったら、もとの道に戻れなくなってしまう。残念だが今夜は、アパートまでの真っ直ぐの道を帰るしかない。
おれは再び、アパートへの帰り道に戻ったが、自転車を漕ぐのがものすごく辛くなって来た。ずっとゆっくりと漕いでいればよかったものを、途中からあの二人を追いかけるために、無理にスピードを上げたものだから、そのうちまともにペダルが漕げなくなって来た。これはもう無理だ。歩いて帰るしかない。そう思ったおれは、そこで自転車を漕ぐのをあきらめて、自転車を降りると、ハンドルを手で押しながら畑の間の道を歩き始めた。
まだ帰りの道の半分までも行っていないと言うのに、このまま自転車を押しながらのろのろと歩いて行ったのでは、アパートまで帰り着くのに何時間かかるか分からない。困った事になってしまったが、それがあまり気にならないほど、満月の夜の延々と広がる畑の光景は不思議な感じがした。
そう言えば、今までこの道を歩いて帰った事は一度もなかった。いつも、一秒でも早くアパートに帰り着こうと、脇見もせずに真っ直ぐ前を見つめて、猛スピードで自転車を飛ばしていたので、こんな風景が周りに広がっていたという事に、今までまったく気がつかないでいたのだ。気がつくと月が、夜空の真上に来ていた。満月が空の真上にあるのを見た事なんて、ひょっとしたら生まれてはじめての事かも知れない。おれはそこで立ち止まって、夜空の真中にある月を見上げた。そのとたん、くらくらと目まいがして、その場に倒れそうになった。
◆ おっと、危なかった。もう少しで、倒れてしまうところだった。いや、ちょっと待てよ。これって何か、同じような事が以前にもあったような。おれはそこで立ち止まったままじっと考えた。しばらく考えているうちに、土曜日の事をやっと思い出した。そうだった。ちょうど土曜日の昼頃、あの延々と続く平地の道の上で空を見上げた時、目まいがして、そのまま道の上に倒れてしまったのだった。
おれはまた、自転車を押しながら歩き始めた。しばらく歩いたところで、またはっと思って立ち止まった。そう言えば土曜日の昼、円盤のように丸い雲が幾つも空に浮かんでいるのを見たが、あれはもしかして、今夜の満月の事だったのか。さっき目まいがした時、満月が幾つも重なって並んでいるように見えた気がするが。
今夜の帰り道は、何かいつもとは違う。そんな感じがだんだんとして来た。またしばらく歩いていると、道から少し離れた所に大きなショベルカーが停めてあるのが見えて来た。あそこで何かの工事をしているのだろうか。月の光に照らされて、黄色いショベルカーがまるで大きな生き物のように、今にも動き出しそうに見えた。ひょっとして、土曜日の昼間、道の上で気を失って倒れていた時に、夢の中で見た巨大な戦車は、実はあのショベルカーだったのかも知れない。満月の光の下で、今まで見えて来なかったもの、気づかないでいたものが、少しずつ姿を現して来ているような気がした。
夜の十二時をだいぶ過ぎた頃、遠くに見える家々の灯りが次々と消えて行った。しばらくすると、一台の自転車が、びゅんびゅんと音を立てながら、おれの後ろの方から猛スピードで通り過ぎて行った。今ごろ仕事を終えて、家に帰って行くやつがいるんだな。それにしても、背中にかばんを背負って、おれと同じ格好をしている。まるで自転車が飛び跳ねているみたいだ。おれもきっと、あんな風にしていつもは帰って行くのだろうな。自転車がどんどん遠ざかって、そのうち見えなくなって行くのをぼんやりと眺めていたおれは、だいぶたってから、ふと思った。さっきの自転車を漕いで行ったやつ、ひょっとしてこのおれじゃなかったか・・・。
2005.03.13 記事公開 2022.09.29 記事修正
おれは、窓から出るのを諦めて、急いで車両の一番奥の座席の陰に隠れた。すぐに、反対側の車両から二つの明かりが入って来た。
「あれっ、いなくなってる。さっきまでここで、新聞紙を被って寝ていたのに。」
「窓が開いてる。きっと、ここから逃げたんだわ。」
「あっ、見て見て。あそこを男が走って行く。きっと、あの男よ。」
「間違いない。急いで追いかけましょう。」
そう言うと、車両のドアが開く音がして、二人の女の職員が外へ飛び出して行った。
そっと起き上がって、窓の外を見ると、二つの明かりが真っ暗な闇の中を遠ざかって行くのが見えた。あの二人、本当に誰かを追いかけているみたいだ。いったい、誰を追いかけてるんだ。あ、そんな事はどうでもいい。すぐに、ここから逃げ出さないと。俺は急いで、二人の女が出て行ったドアから外に出ると、車両の下を潜って、線路の反対側に出て、そのまま闇の中を走り始めた。二人の女は向こう側を走って行ったから、おれがこちらに逃げて来た事は気づいていないはずだ。おれは夢中になって走り続けた。途中、林みたいな所や畑みたいな所を走り抜け、ようやく空が明るくなりかけた頃には、知らない町の中を走っていた。
◆ おれより先に電車から逃げて行ったらしい男は、いったい誰なんだ・・・。いつの間にか、歩きながらおれは考えていた。やっとのことで、電車の車庫まで来れたのに、真っ暗で、どんな所なのかも分からないまま逃げて来てしまった。おれはそこで、はっと立ち止まった。何をやっているのだ、お前は。すぐに車庫まで引き返して、そこがどんな所なのかを確かめないと。おれは歩いて来た道を引き返した。
しばらくすると、見晴らしが良くなって、周りに高い建物が無くなって来て、やがて周りは、地面がずっと真っ平らな延々と続く平地になって行った。あれっ、電車の車庫ってこんなところだったか。ひょっとして、飛行場だったのか、ここは。青い空を見上げると、白い雲が円盤のように見える。今にも、空飛ぶ円盤がここに舞い降りて来そうな気がした。まるで地平線に向かって歩いているかのように、どれだけ歩き続けて行っても周りの景色は、何一つ変わって行かない。一体、どこまで歩いて行けばいいのだろうか。と言うか、電車の線路がどのあたりを通っているのかさえ、まったく分からない。周りを見回しても、どこにも電車らしき物は見えないし・・・。
もしかして、歩く方向を間違えているのだろうか。だいぶ歩き続けた所で、やっとおれはそう思った。周りに目印になる物が何も無いので、一体、自分がどんなところにいるのか、まったく見当がつかない。これって要するに、道に迷ったのと同じ事なのか。このまま歩き続けていると、車庫にたどり着けないどころか、夜までにアパートに帰れなくなるかも知れない。
思わずおれは、真っ直ぐ上の空を見上げた。その瞬間、空全体が真っ赤になって、おれはそのまま地面の上に崩れるように倒れた。まるで、ふんわりした雲の上に倒れたような心地がした。いったい、何が起こったのかよく分からなかったが、しばらくして、地面の上に倒れたままでいる自分に気がついた。歩き過ぎて、貧血になって倒れたのだろうか。もしかしたら、このままここで、夜を明かす事になるかも知れない。などと、とりとめの無い事を考えているうちにまた、意識が消えて行った。
◆ それからまた、しばらくして、ものすごい地響きがやって来たので、驚いて周りを見回すと、巨大な戦車のような物が、真っ平らな大地の果てからものすごい速さでこちらに向かってやって来るのが見えた。危ない。このままここで倒れたままでいては、あの戦車に踏み潰されてしまう。急いで走って逃げなくては。ところが、起き上がろうとしても力が抜けて、どうしても起き上がる事が出来ない。
起きろ。起きろ。と必死に叫んでいるところで、やっと目が覚めた。気がつくと、昼をだいぶ過ぎてしまっていた。これはいかん。暗くなり始める前に、どこでもいいから電車の駅を見つけないと、本当にこのまま迷子になってしまう。おれはようやく立ち上がると、今まで歩いて来た道を引き返して行った。
だいぶ歩いた末に、やっと町の中まで戻って来れた。やれやれ、これでなんとか、アパートに帰れるかも知れない。と思ってほっとしていると、どこからか豆腐屋のラッパの音が聞こえて来た。夕方になって、豆腐屋が町の中を回っているのだ。こんな所がまだ残っていたのか。何となく不思議な町だな、ここは。などと思っていると、今度は別の場所からポンポコ、ポンポコと威勢のいい音が聞こえて来た。あっあれは、もしかして壁打ちテニスをやっている音か。しかし何となくテンポが違うな、音は似ているけど。と思いながら歩いていると、町の中のお寺の横に来ていた。そして、ポンポコと言う音と一緒に、お経を読み上げる声が聞こえて来た。そうか、あれは木魚を叩いている音だったのか。町の中を通り過ぎた時、やっと電車の駅を見つけた。本当に疲れた。改札口からプラットホームに上がると、何か見覚えがあるな、と思ったら、回送電車に乗って行った、あの終点の駅だった。
やっとのことで電車に乗って、自分の自転車が置いてあるいつもの駅に着いた時には、脚がくたくたになってまともに歩く事も出来ないくらいになっていた。アパートまで自転車を漕いで帰るのは到底無理な状態だったので、自転車は駅前に置いたままにして、バスに乗って帰った。
◆ 翌日の日曜日は、疲れ切っていたので、一日中、アパートの部屋にいて、月曜日の朝は、バスに乗って駅まで行った。駅の階段を上るのが結構きつかった。
この日は午後になって急な仕事が入ったので、遅くまで残業してから帰った。帰りの電車を降りた時には、駅から出るバスが一時間に一本出るかどうかという時間帯になっていたので、自転車で帰る事にした。駅前の自転車置き場に行って、金曜日の朝からずっと置いたままになっていた自転車にまたがって漕ぎ始めたとたん、脚の筋肉がずっきんずっきんと痛み出した。このまま、この長い道のりを漕いで行くのは無理かもしれない。今夜はやっぱり、バスに乗って帰った方がいいか、と思ったちょうどその時、駅前を出発したばかりのバスが目の前を通り過ぎて行った。ああ、遅かったか。あれに乗ればよかったのだが、あと一時間待たなければ次のバスが来ないのなら、やっぱり今夜は、自転車で帰るしかないか。と言うことで、おれはいつもよりもゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。
◆ しばらくのろのろと自転車を漕いでいると、畑の広がる地帯に出た。やがて、後ろの方から自転車に乗った人達が、何やら話しながら近づいて来るのが聞こえて来た。どうやら二人の女の人が、並んで自転車を漕いでいるようだった。そのうち、のろのろと自転車を漕いでいるおれに二つの自転車が並んで、そして二つの自転車がおれを追い越して行った。その時、二人の女が
「ほんと、生きてるのって辛いよね。」
「いったい、どうしたらいいのかしらね。」
とかなんとか、笑いながら話している声が聞こえた。二人の女は真っ白の服を着ていた。畑の間の道なのに、なんでこんなに明るいのだろうか、と思って空を見たら満月だった。そうか、今夜が満月だったのか、と思ってペダルを漕いでいる自分の足元を見ると、くっきりと自転車の影が地面に映っていた。そう言えば、あのにこにこ鉄道に初めて乗ったのも、満月の夜だったな。何だか不思議な電車だったな、あれは。などと思い出しながらぼんやりと、目の前を遠ざかって行く自転車に乗った二人の女の後ろ姿を眺めた時、はっと思った。あの右側の女、本山美香に似てないか。後ろから見た髪形がそっくりだし、体つきも似ている。もしかして、今まで何度か出会った謎の女か、あいつらは。
とっさにおれは、二人の女の後をつけて行こうと思い立った。ところがあの二人、意外と自転車を漕ぐのが速い。と言うか、おれの方が遅すぎるのだが。このままではそのうち、あの二人を見失ってしまう。もっと速く漕がなくては。おれはペダルを漕ぐ脚に力を入れた。段々、ももの筋肉の痛みが激しくなって来た。前の方を走っていた二人の女が、急に道を曲がって、そのまま脇道に入って行った。おれのアパートへの帰り道とは方向が違っていた。おれも二人の後を追って、同じ道を曲がった。
曲がったとたんに、おれは自転車を止めてしまった。狭くて曲がりくねった道が、目の前に続いていた。おれは今まで、駅からアパートまでの一筋の道以外には、このあたりのほかの道は通った事がないのだ。夜中にこんな脇道へ入って行ったら、もとの道に戻れなくなってしまう。残念だが今夜は、アパートまでの真っ直ぐの道を帰るしかない。
おれは再び、アパートへの帰り道に戻ったが、自転車を漕ぐのがものすごく辛くなって来た。ずっとゆっくりと漕いでいればよかったものを、途中からあの二人を追いかけるために、無理にスピードを上げたものだから、そのうちまともにペダルが漕げなくなって来た。これはもう無理だ。歩いて帰るしかない。そう思ったおれは、そこで自転車を漕ぐのをあきらめて、自転車を降りると、ハンドルを手で押しながら畑の間の道を歩き始めた。
まだ帰りの道の半分までも行っていないと言うのに、このまま自転車を押しながらのろのろと歩いて行ったのでは、アパートまで帰り着くのに何時間かかるか分からない。困った事になってしまったが、それがあまり気にならないほど、満月の夜の延々と広がる畑の光景は不思議な感じがした。
そう言えば、今までこの道を歩いて帰った事は一度もなかった。いつも、一秒でも早くアパートに帰り着こうと、脇見もせずに真っ直ぐ前を見つめて、猛スピードで自転車を飛ばしていたので、こんな風景が周りに広がっていたという事に、今までまったく気がつかないでいたのだ。気がつくと月が、夜空の真上に来ていた。満月が空の真上にあるのを見た事なんて、ひょっとしたら生まれてはじめての事かも知れない。おれはそこで立ち止まって、夜空の真中にある月を見上げた。そのとたん、くらくらと目まいがして、その場に倒れそうになった。
◆ おっと、危なかった。もう少しで、倒れてしまうところだった。いや、ちょっと待てよ。これって何か、同じような事が以前にもあったような。おれはそこで立ち止まったままじっと考えた。しばらく考えているうちに、土曜日の事をやっと思い出した。そうだった。ちょうど土曜日の昼頃、あの延々と続く平地の道の上で空を見上げた時、目まいがして、そのまま道の上に倒れてしまったのだった。
おれはまた、自転車を押しながら歩き始めた。しばらく歩いたところで、またはっと思って立ち止まった。そう言えば土曜日の昼、円盤のように丸い雲が幾つも空に浮かんでいるのを見たが、あれはもしかして、今夜の満月の事だったのか。さっき目まいがした時、満月が幾つも重なって並んでいるように見えた気がするが。
今夜の帰り道は、何かいつもとは違う。そんな感じがだんだんとして来た。またしばらく歩いていると、道から少し離れた所に大きなショベルカーが停めてあるのが見えて来た。あそこで何かの工事をしているのだろうか。月の光に照らされて、黄色いショベルカーがまるで大きな生き物のように、今にも動き出しそうに見えた。ひょっとして、土曜日の昼間、道の上で気を失って倒れていた時に、夢の中で見た巨大な戦車は、実はあのショベルカーだったのかも知れない。満月の光の下で、今まで見えて来なかったもの、気づかないでいたものが、少しずつ姿を現して来ているような気がした。
夜の十二時をだいぶ過ぎた頃、遠くに見える家々の灯りが次々と消えて行った。しばらくすると、一台の自転車が、びゅんびゅんと音を立てながら、おれの後ろの方から猛スピードで通り過ぎて行った。今ごろ仕事を終えて、家に帰って行くやつがいるんだな。それにしても、背中にかばんを背負って、おれと同じ格好をしている。まるで自転車が飛び跳ねているみたいだ。おれもきっと、あんな風にしていつもは帰って行くのだろうな。自転車がどんどん遠ざかって、そのうち見えなくなって行くのをぼんやりと眺めていたおれは、だいぶたってから、ふと思った。さっきの自転車を漕いで行ったやつ、ひょっとしてこのおれじゃなかったか・・・。
2005.03.13 記事公開 2022.09.29 記事修正
夜汽車 6 謎の車
◆ また自転車を押しながら、とぼとぼと歩いていると、急に強い風が後ろの方から吹いて来て、おれはしばらく立ち止まった。風が止んで、また歩き始めると、知らないうちに大きなワンボックスの車が後ろから近づいて来ていた。おれは自転車を道の端に寄せると、立ち止まって車が通り過ぎるのを待った。ゆっくり近づいて来た車は、おれの横でぴたりと止まった。
「毎日、遅くまで大変やね。」
と、開いた車の窓から中年の男の声がした。あれっ、この人、おれのこと知ってるのか。いったい、どこの誰なんだ。と思っていると、
「自転車が動かんようになったんかね。アパートまで乗せてったるで、わしの車に乗りゃあ。」
とか言って、運転席から降りてきた男は、車の後ろのドアをかぱっと大きく開けた。
「これで二回目やね。あんたをアパートまで乗せてったるのは。」
と、男は笑いながらおれの自転車を車の中に入れた。
「あ、本当にどうも、すいません。」
と、おれはあわてて礼を言うと、車の助手席に乗って、再び車は走り出した。
何が何やら、さっぱりわけが分からん。いったい、どうなってるんだ。と思っていると、二、三分もたたないうちに、車はおれの住んでいるアパートの駐車場の中に入って行って、そこで停まった。
「あれっ。もしかして、おれと同じアパートに住んでみえるんでしたっけ。」
と、おれはついつい口に出してしまって、すぐ、しまった。黙っていればよかった、と思った。
「何を言っとるんやね。わしは、あんたの隣の部屋の住人やがね。」
と、男は目を真ん丸くして、呆れ果てたような顔をすると、ぽんとおれの肩を叩いて、
「仕事し過ぎて、だいぶ疲れが溜まっとるみたいやね。」
と同情してくれた。
おれは車を降りると、再び男に礼を言ってから、自転車をアパートの裏の自転車置き場まで押して行った。そこから、アパートの階段の入り口に行こうとした時、ものすごい風が再び吹き荒れた。風が止んでから、おれは念のため、外からアパートの部屋の窓を見上げてみたが、おれの部屋の窓も、隣の住人の部屋の窓も真っ暗だった。もしかして、おれを乗せて来てくれたあの男は、まだ車の中にいるのだろうか。それとも再び、どこかに出かけて行ってしまったのだろうか。気になったおれは、さっき車から降りたばかりの駐車場に急いで行ってみたが、ワンボックスの車はどこにも無かった。
アパートの自分の部屋にやっと帰って来たおれは、ふとんを敷くと、どっと一日の疲れが出て来て、すぐに眠ってしまった。
◆ 翌日の朝、仕事に出かけるために部屋の入り口を出たおれは、一体、隣の部屋の住人が何と言う名前の人だったのかを確かめるために、隣の入り口に行ってみたが、何も表札が掛かっていなかった。それで、階段を下りて、一階の郵便受けを見たが、やはり隣の住人の名前は郵便受けにも貼ってなかった。何かおかしい、と思ったおれは、しばらく考えたが、自分の隣の部屋の住人は、自分がこのアパートに引っ越して来た時には、すでに出て行ってしまっていて、それからずっと今まで、空き部屋のままになっていた事をやっと思い出した。きのうのあの男はいったい、何者だったんだ。どれだけ考えても、まったく分からない。
おれは自転車置き場に行くと、いつものように自分の自転車に乗って駅に向かった。
◆ 月曜日の夜中の不思議な出来事の後の一週間が過ぎて行った。この週の金曜日は、会社に出勤する最後の日だった。と言うのは、おれはまだ学生で、学校を卒業するための単位となる企業での実習のために、夏休みの前半の期間、この会社に働きに来ていただけだったからだ。今日はその実習期間の最後の日で、朝九時に出社して、責任者の話を聞いた後、実習期間の賃金を受け取ったら、もうそれで帰っていい事になっていた。ほんの数週間だけ住んでいたアパートの部屋は、会社が用意してくれたもので、明日の土曜日の夜までに荷物を片づけて、鍵をアパートの管理人に渡して出て行けばよかった。
おれは内心そわそわしながら、きょうが最後となる会社に出かけて行った。会社に着いて午前九時になると、実習で来ていたおれを含めて数人の学生たちが、記念品のような物を受け取って、会社の人の話を聞いて、最後に賃金を受け取ると、これで退社する事になった。
ほかの連中は、今貰ったばかりの給料で、そのまま夜通しでどこかに遊びに行くつもりみたいだったが、おれはいつものように帰りの電車に乗って、そのまま帰りの駅で降りて、気がついたら、アパートに向かって自転車を漕いでいた。このまま昼前にアパートに帰って来てしまっても、何もする事が無いしどうしたものか、と漕ぎながら考えていると、ふと月曜日の夜の出来事を思い出した。あの二人の謎の女が、自転車を漕ぎながら途中の道を曲がって行って、そのまま姿を消してしまったが、あの曲がりくねった細い道の先には何があるのか、ちょっと確かめに行ってみようか。
ふと思いついたおれは、アパートへの帰り道の途中、二人の女が曲がって行った細い脇道を見つけると、そこを曲がってその先へと進んで行った。不思議な事にこの細く曲がりくねった道は、途中で枝分かれする事もなく、一本道のままずっと続いていて、やがて大きな林が前方に見えて来た。一体、この林は何だろうか。と思いながら進んで行くと、林の端の方に寺があるのが見えて来た。何とこの林は、この寺の境内だったのか。しかし、ちょっと広過ぎやしないか。寺の建物は、大したことないのに。寺の本堂が見えて来たあたりで、やっと道が交差するようになって、人家の集まる集落が現れて来た。道の端に自転車を停めると、おれは寺の入り口から中をのぞいて見た。そして、やっと分かった。広い境内の中は、延々と墓地が広がっていた。寺の建物は小さいのに、墓地がこれだけ広いとちょっと怖いな。
おれは再び自転車に乗って道を引き返し、自分のアパートに向かった。
◆ アパートに帰ったら、昼までだいぶ時間があったので、溜まった荷物を全部整理してしまおうと思って、押し入れの中に積んであった雑誌や書類や郵便物を片付け始めた。するとそのうち、中身が空の、何かの手紙が入っていたらしい封筒が出て来た。あれっ、これってもしかして、あのにこにこ鉄道の招待状が入っていた封筒じゃないのか。今まで、どれだけ捜しても見つからなかったのに、明日にはこのアパートを出て行かなくてはいけないと言う時になって、ひょっこりと出て来るとは。いったい、何者なんだ、こいつは。と思って見た時、おれはあれっと思った。封筒の宛先が、自分ではなくて、知らない男の名前になっている。とにかくこれは、自分に来た手紙ではなかったのだ。こんな大事な事に、何で今まで気づかなかったのだろうか。そう思ってしばらく呆然としているうちに、この手紙を開けて見た数週間前の事が、だんだんと思い出されて来た。そうだった。この手紙を開けたあの日は、まだ会社の仕事に慣れていなくて、いろいろとまずい事をやってしまって、会社の人にきつく注意されて、すっかり頭の中が混乱してしまったままアパートに帰って来た、確かあの日だった。だから、手紙を郵便受けから取り出すと、封を開いて中身だけ読んで、これが自分宛の手紙ではないという事には、ずっと気づかないでいたのだ。
ひょっとして、この手紙の宛名は、もしかしたら、自分がこのアパートに来る前に出て行った、あの隣の部屋の住人の名前なのかも知れない。あの人に届けるべき手紙を郵便配達人がうっかりして、自分の郵便受けに間違って入れたのだ。と思って封筒の消印を見ると、おれがこのアパートに来た日より、ずっとずっと前の日付になっている。どうもおかしい。よく見ると、差出人の名前も住所も書いてない。
◆ 昼になるとおれは、近くのラーメン屋で昼食を済ませて、その後、しばらくしてからアパートに戻って来た。アパートの入り口にある郵便受けを何となく眺めた時、おれははっと思った。もしかしたら自分は、あの数週間前の木曜日の夜、間違って自分の隣の郵便受けを開けたのかも知れない。アパートの郵便受けはどれも、他人が勝手に開けられないように鍵が掛けてある。だが、空部屋になった自分の隣の郵便受けには、鍵が掛かっていなかった。もしかしたらおれが、あの時、隣の郵便受けを自分のと間違えて開けたのかも。
名前のない郵便受けをしばらく見詰めていた時、よからぬ思いが湧き上がった。もしかしたら今、この中に、ほかにもまだ手紙が入っているかも知れない・・・。おれは、周りに誰も人が見ていないのを確かめると、隣の郵便受けをそっと開けてみた。中に薄っぺらい封筒が入っているのが見えた。おれはさっと封筒を手に取ると、そのまま急いで階段を駆け上がって、自分の部屋に入った。
まさか、本当に手紙が入っているとは思わなかった。封筒を見ると、さっき、押入れの中から見つけたばかりの封筒と同じ、おれの知らない男の名前が宛先になっている。そして、差出人の名前と住所が、封筒のどこにも書いてない。消印を見ると、ずい分前に届いている手紙だ。とにかく、おれがあの手紙をあの郵便受けから取り出した、そのすぐ後にまた来た手紙である事は間違いない。おれは急いでハサミで封を切ろうとしたが、ひどく興奮していて手が震えてしまって、うまくハサミが動かない。なんで、こういう大事な時になると、手が震えてしまうんだ。あせったおれは、思わず手に力が入って、なんと封筒を真っ二つにざっくりとハサミで切り落としてしまった。
やっとの事で封を開ける事ができたおれは、真っ二つに切り離された中の手紙を繋ぎ合わせて読んでみた。それは、「お詫びと訂正」と題した、次のような内容だった。
◇◇ これは大切なお知らせです。前回、ご案内しました「夜汽車の旅」に一部、誤りがありました。次のように訂正してください。深く、お詫び申し上げます。
「徒歩か自転車のいずれかで」 を 「徒歩で」 と訂正します。
なお、期間を八月の第二金曜日まで延長し、新しいチケットを同封しました。すでに一度ご乗車になった方も、もう一度ご利用できます。 ◇◇
と、要するに、自転車でお茶の湯駅に行ってはいけなかったという事なのか、こいつめ。しかし、それにしても、ここから歩いてお茶の湯駅まで行くとなると、結構時間がかかる。それに八月の第二金曜日と言うのは、ひょっとして今日の事じゃないのか。さっそく、これから出かけないといけないという事なのか。ところで、新しいチケットが入っていると書いてあるけど、そんな物、どこにあるのだろうか。と思って、真っ二つに切った封筒の中をよく見ると、中に真っ二つに切り離されたチケットが確かに入っている。ところが繋ぎ合わせてよく見てみると、切り離されたチケットは無効だと書いてある。まったくついてない。要するに「夜汽車の旅」には行けないという事なのか。結局、こうなるのだ。
おれは椅子に腰掛けて、しばらくぼんやりと、窓の外の夏の終わりに近づいた午後の町のようすを眺めた。その時、不思議な虚しさが襲って来た。明日の今ごろは、自分はもうこのアパートのこの部屋にはいないのだ。よく考えてみると、今年の夏休みは、まだ何も思い出に残るようなものと出会っていない気がするが。
思わず溜息をついたおれは、今日の事を振り返った。一緒に実習で来ていたほかの連中は今ごろ、泊りがけでどこかに遊びに行っているはずなのに、自分はどこにも行く予定を考えていなかった。「夜汽車の旅」に行けたら、ちょうどよかったのだが。
そこでおれは、ふと思った。本当は「夜汽車の旅」と言うのは、泊りがけの旅だったんじゃないのだろうか。ところが、おれが乗ったにこにこ鉄道は、途中で止まって折り返して来ただけだった。あれって、やっぱり、自転車でお茶の湯駅に行ったのがいけなかったのだろうか。もし、あの時、歩いてお茶の湯駅に行っていたら、もっと違った旅が楽しめたのかも知れない。だが、歩いて行ったら到底、夜の七時には間に合わなかったが・・・。
だんだんおれは、夜汽車の旅にどうしても行きたくてしかたなくなって来た。今日は、朝の九時半には最後の会社の勤務が終わったと言うのに、何だかもったいない。
2005.05.05 記事公開
「毎日、遅くまで大変やね。」
と、開いた車の窓から中年の男の声がした。あれっ、この人、おれのこと知ってるのか。いったい、どこの誰なんだ。と思っていると、
「自転車が動かんようになったんかね。アパートまで乗せてったるで、わしの車に乗りゃあ。」
とか言って、運転席から降りてきた男は、車の後ろのドアをかぱっと大きく開けた。
「これで二回目やね。あんたをアパートまで乗せてったるのは。」
と、男は笑いながらおれの自転車を車の中に入れた。
「あ、本当にどうも、すいません。」
と、おれはあわてて礼を言うと、車の助手席に乗って、再び車は走り出した。
何が何やら、さっぱりわけが分からん。いったい、どうなってるんだ。と思っていると、二、三分もたたないうちに、車はおれの住んでいるアパートの駐車場の中に入って行って、そこで停まった。
「あれっ。もしかして、おれと同じアパートに住んでみえるんでしたっけ。」
と、おれはついつい口に出してしまって、すぐ、しまった。黙っていればよかった、と思った。
「何を言っとるんやね。わしは、あんたの隣の部屋の住人やがね。」
と、男は目を真ん丸くして、呆れ果てたような顔をすると、ぽんとおれの肩を叩いて、
「仕事し過ぎて、だいぶ疲れが溜まっとるみたいやね。」
と同情してくれた。
おれは車を降りると、再び男に礼を言ってから、自転車をアパートの裏の自転車置き場まで押して行った。そこから、アパートの階段の入り口に行こうとした時、ものすごい風が再び吹き荒れた。風が止んでから、おれは念のため、外からアパートの部屋の窓を見上げてみたが、おれの部屋の窓も、隣の住人の部屋の窓も真っ暗だった。もしかして、おれを乗せて来てくれたあの男は、まだ車の中にいるのだろうか。それとも再び、どこかに出かけて行ってしまったのだろうか。気になったおれは、さっき車から降りたばかりの駐車場に急いで行ってみたが、ワンボックスの車はどこにも無かった。
アパートの自分の部屋にやっと帰って来たおれは、ふとんを敷くと、どっと一日の疲れが出て来て、すぐに眠ってしまった。
◆ 翌日の朝、仕事に出かけるために部屋の入り口を出たおれは、一体、隣の部屋の住人が何と言う名前の人だったのかを確かめるために、隣の入り口に行ってみたが、何も表札が掛かっていなかった。それで、階段を下りて、一階の郵便受けを見たが、やはり隣の住人の名前は郵便受けにも貼ってなかった。何かおかしい、と思ったおれは、しばらく考えたが、自分の隣の部屋の住人は、自分がこのアパートに引っ越して来た時には、すでに出て行ってしまっていて、それからずっと今まで、空き部屋のままになっていた事をやっと思い出した。きのうのあの男はいったい、何者だったんだ。どれだけ考えても、まったく分からない。
おれは自転車置き場に行くと、いつものように自分の自転車に乗って駅に向かった。
◆ 月曜日の夜中の不思議な出来事の後の一週間が過ぎて行った。この週の金曜日は、会社に出勤する最後の日だった。と言うのは、おれはまだ学生で、学校を卒業するための単位となる企業での実習のために、夏休みの前半の期間、この会社に働きに来ていただけだったからだ。今日はその実習期間の最後の日で、朝九時に出社して、責任者の話を聞いた後、実習期間の賃金を受け取ったら、もうそれで帰っていい事になっていた。ほんの数週間だけ住んでいたアパートの部屋は、会社が用意してくれたもので、明日の土曜日の夜までに荷物を片づけて、鍵をアパートの管理人に渡して出て行けばよかった。
おれは内心そわそわしながら、きょうが最後となる会社に出かけて行った。会社に着いて午前九時になると、実習で来ていたおれを含めて数人の学生たちが、記念品のような物を受け取って、会社の人の話を聞いて、最後に賃金を受け取ると、これで退社する事になった。
ほかの連中は、今貰ったばかりの給料で、そのまま夜通しでどこかに遊びに行くつもりみたいだったが、おれはいつものように帰りの電車に乗って、そのまま帰りの駅で降りて、気がついたら、アパートに向かって自転車を漕いでいた。このまま昼前にアパートに帰って来てしまっても、何もする事が無いしどうしたものか、と漕ぎながら考えていると、ふと月曜日の夜の出来事を思い出した。あの二人の謎の女が、自転車を漕ぎながら途中の道を曲がって行って、そのまま姿を消してしまったが、あの曲がりくねった細い道の先には何があるのか、ちょっと確かめに行ってみようか。
ふと思いついたおれは、アパートへの帰り道の途中、二人の女が曲がって行った細い脇道を見つけると、そこを曲がってその先へと進んで行った。不思議な事にこの細く曲がりくねった道は、途中で枝分かれする事もなく、一本道のままずっと続いていて、やがて大きな林が前方に見えて来た。一体、この林は何だろうか。と思いながら進んで行くと、林の端の方に寺があるのが見えて来た。何とこの林は、この寺の境内だったのか。しかし、ちょっと広過ぎやしないか。寺の建物は、大したことないのに。寺の本堂が見えて来たあたりで、やっと道が交差するようになって、人家の集まる集落が現れて来た。道の端に自転車を停めると、おれは寺の入り口から中をのぞいて見た。そして、やっと分かった。広い境内の中は、延々と墓地が広がっていた。寺の建物は小さいのに、墓地がこれだけ広いとちょっと怖いな。
おれは再び自転車に乗って道を引き返し、自分のアパートに向かった。
◆ アパートに帰ったら、昼までだいぶ時間があったので、溜まった荷物を全部整理してしまおうと思って、押し入れの中に積んであった雑誌や書類や郵便物を片付け始めた。するとそのうち、中身が空の、何かの手紙が入っていたらしい封筒が出て来た。あれっ、これってもしかして、あのにこにこ鉄道の招待状が入っていた封筒じゃないのか。今まで、どれだけ捜しても見つからなかったのに、明日にはこのアパートを出て行かなくてはいけないと言う時になって、ひょっこりと出て来るとは。いったい、何者なんだ、こいつは。と思って見た時、おれはあれっと思った。封筒の宛先が、自分ではなくて、知らない男の名前になっている。とにかくこれは、自分に来た手紙ではなかったのだ。こんな大事な事に、何で今まで気づかなかったのだろうか。そう思ってしばらく呆然としているうちに、この手紙を開けて見た数週間前の事が、だんだんと思い出されて来た。そうだった。この手紙を開けたあの日は、まだ会社の仕事に慣れていなくて、いろいろとまずい事をやってしまって、会社の人にきつく注意されて、すっかり頭の中が混乱してしまったままアパートに帰って来た、確かあの日だった。だから、手紙を郵便受けから取り出すと、封を開いて中身だけ読んで、これが自分宛の手紙ではないという事には、ずっと気づかないでいたのだ。
ひょっとして、この手紙の宛名は、もしかしたら、自分がこのアパートに来る前に出て行った、あの隣の部屋の住人の名前なのかも知れない。あの人に届けるべき手紙を郵便配達人がうっかりして、自分の郵便受けに間違って入れたのだ。と思って封筒の消印を見ると、おれがこのアパートに来た日より、ずっとずっと前の日付になっている。どうもおかしい。よく見ると、差出人の名前も住所も書いてない。
◆ 昼になるとおれは、近くのラーメン屋で昼食を済ませて、その後、しばらくしてからアパートに戻って来た。アパートの入り口にある郵便受けを何となく眺めた時、おれははっと思った。もしかしたら自分は、あの数週間前の木曜日の夜、間違って自分の隣の郵便受けを開けたのかも知れない。アパートの郵便受けはどれも、他人が勝手に開けられないように鍵が掛けてある。だが、空部屋になった自分の隣の郵便受けには、鍵が掛かっていなかった。もしかしたらおれが、あの時、隣の郵便受けを自分のと間違えて開けたのかも。
名前のない郵便受けをしばらく見詰めていた時、よからぬ思いが湧き上がった。もしかしたら今、この中に、ほかにもまだ手紙が入っているかも知れない・・・。おれは、周りに誰も人が見ていないのを確かめると、隣の郵便受けをそっと開けてみた。中に薄っぺらい封筒が入っているのが見えた。おれはさっと封筒を手に取ると、そのまま急いで階段を駆け上がって、自分の部屋に入った。
まさか、本当に手紙が入っているとは思わなかった。封筒を見ると、さっき、押入れの中から見つけたばかりの封筒と同じ、おれの知らない男の名前が宛先になっている。そして、差出人の名前と住所が、封筒のどこにも書いてない。消印を見ると、ずい分前に届いている手紙だ。とにかく、おれがあの手紙をあの郵便受けから取り出した、そのすぐ後にまた来た手紙である事は間違いない。おれは急いでハサミで封を切ろうとしたが、ひどく興奮していて手が震えてしまって、うまくハサミが動かない。なんで、こういう大事な時になると、手が震えてしまうんだ。あせったおれは、思わず手に力が入って、なんと封筒を真っ二つにざっくりとハサミで切り落としてしまった。
やっとの事で封を開ける事ができたおれは、真っ二つに切り離された中の手紙を繋ぎ合わせて読んでみた。それは、「お詫びと訂正」と題した、次のような内容だった。
◇◇ これは大切なお知らせです。前回、ご案内しました「夜汽車の旅」に一部、誤りがありました。次のように訂正してください。深く、お詫び申し上げます。
「徒歩か自転車のいずれかで」 を 「徒歩で」 と訂正します。
なお、期間を八月の第二金曜日まで延長し、新しいチケットを同封しました。すでに一度ご乗車になった方も、もう一度ご利用できます。 ◇◇
と、要するに、自転車でお茶の湯駅に行ってはいけなかったという事なのか、こいつめ。しかし、それにしても、ここから歩いてお茶の湯駅まで行くとなると、結構時間がかかる。それに八月の第二金曜日と言うのは、ひょっとして今日の事じゃないのか。さっそく、これから出かけないといけないという事なのか。ところで、新しいチケットが入っていると書いてあるけど、そんな物、どこにあるのだろうか。と思って、真っ二つに切った封筒の中をよく見ると、中に真っ二つに切り離されたチケットが確かに入っている。ところが繋ぎ合わせてよく見てみると、切り離されたチケットは無効だと書いてある。まったくついてない。要するに「夜汽車の旅」には行けないという事なのか。結局、こうなるのだ。
おれは椅子に腰掛けて、しばらくぼんやりと、窓の外の夏の終わりに近づいた午後の町のようすを眺めた。その時、不思議な虚しさが襲って来た。明日の今ごろは、自分はもうこのアパートのこの部屋にはいないのだ。よく考えてみると、今年の夏休みは、まだ何も思い出に残るようなものと出会っていない気がするが。
思わず溜息をついたおれは、今日の事を振り返った。一緒に実習で来ていたほかの連中は今ごろ、泊りがけでどこかに遊びに行っているはずなのに、自分はどこにも行く予定を考えていなかった。「夜汽車の旅」に行けたら、ちょうどよかったのだが。
そこでおれは、ふと思った。本当は「夜汽車の旅」と言うのは、泊りがけの旅だったんじゃないのだろうか。ところが、おれが乗ったにこにこ鉄道は、途中で止まって折り返して来ただけだった。あれって、やっぱり、自転車でお茶の湯駅に行ったのがいけなかったのだろうか。もし、あの時、歩いてお茶の湯駅に行っていたら、もっと違った旅が楽しめたのかも知れない。だが、歩いて行ったら到底、夜の七時には間に合わなかったが・・・。
だんだんおれは、夜汽車の旅にどうしても行きたくてしかたなくなって来た。今日は、朝の九時半には最後の会社の勤務が終わったと言うのに、何だかもったいない。
2005.05.05 記事公開
夜汽車 7 夜汽車
◆ 夕方の六時を過ぎた時、これから夜汽車の旅に出かける事をおれは決心した。さっき、ハサミで真っ二つに切り離してしまったばかりの乗車券をセロテープで繋ぎ合わせると、おれはそれをポケットに入れ、部屋の窓を全部閉め、カーテンも閉めて、部屋の灯りを消すと、入り口のドアを開けて出ようとした。
ところが、ドアを開けようとすると、ドアがまったく動かない。おかしい。どこもロックをしていないのに。取っ手を回して、力いっぱいドアを押すと、ほんの少し開きかけて、すぐに閉まってしまう。まるで誰かが、外からドアを押し返しているかのようだ。まさか、おれが隣の部屋の住人に届いた手紙を勝手に取り出して開けてしまったので、怒り狂った隣の男が、おれが外に出られないように邪魔しているのでは・・・。おれは一瞬、ぎくりとした。おれは、自分の背中をドアに当て、後ろ向きになって、思いっ切りドアを押した。その瞬間、ドアが勢いよく開いて、おれはドアの外の階段の手前で、仰向けになってひっくり返った。もう少しで頭を打つところだった。周りを見回すと、特に人がいたような気配は無い。
おかしい。さっきのは、何だったんだ。不思議に思いながら、おれは自分の部屋のドアに鍵を掛けると、階段を下りようとした。ところがその瞬間、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、眼を開けていられなくなった。それでおれは、後ろ向きになって、階段を下り始めた。するとその時、おれの隣の部屋の入り口のドアが開いた。まさか。あの部屋はずっと、空き部屋になっていたはずなのに。いつの間に、人が入っていたんだ。それとも、アパートの家主が部屋の中を見に来ていたのだろうか。と思っていると、中年の男があわてたようすで、開いたドアから顔を出した。あっ、あの人。月曜日の真夜中に、おれを車に乗せてくれた人。やっぱり、あの部屋にずっと住んでいたのか。え、何で?と、何が何だかわけが分からなくなりかけた時、
「あんた。もしかして、わしのとこに来た郵便、間違って持って行っとらんかね。」
と、男がおれに向かって大声で叫んだ。あ。やっぱり、あの手紙の事だったのか。やっぱり、勝手に取り出してはいけなかったのだ。しまった。今すぐ謝らなくては。と、おれはあわてて
「あっ、すみません。申しわけありませんでしたあ。」
と、大声で答えると、下りかけた階段をまた、上ろうとした。その時、ものすごい突風が吹き荒れて、男はあわてて顔を引っ込めた。その瞬間、大きな音をたててドアが閉まった。その後はどれだけたっても、男は二度と、顔を出さなかった。
◆ 強い風が階段の下から吹き上げて来るので、おれは後ろ向きのままで、壁に寄り掛かりながら、階段を下りて行った。やっとアパートの外に出ると、風は止んでいた。さっきの強い風はいったい、何だったんだろう。不思議に思いながら、自分のアパートを見上げると、どの部屋の窓も皆、カーテンが閉めてある。これは以前、はじめてにこにこ鉄道に出かけて行った晩と、まったく同じだ。だが今度は、歩いてお茶の湯駅まで行かないといけない。おれは、お茶の湯駅に向かって歩き始めた。不思議な事に、今度もやはり、途中の信号はずっと青だった。一度も途中で信号待ちをする事もなく、おれは歩き続けて行った。ところで、お茶の湯駅はだいぶ前にホームが取り壊されていたが、一体、今はどうなっているのだろうか。おれはよく分からなかった。もしかしたら、もとのお茶の湯駅にいつの間にか戻っているのかも知れない。あるいは、ひょっとしたら、本当の蒸気機関車が停まっていたりして。
何か、今までになかった何かと、今夜は出会えるような気がする。おれは次第に胸をわくわくさせて行って、いつの間にか小走りに駅に向かっていた。
◆ やっとお茶の湯駅があった場所に着いた時、おれは唖然とした。そこには駅は無く、レールも無かった。当然の事だった。だいぶ前に、駅が壊されているのをこの目で見て来ているのだから。おれは自分で、自分に呆れ返っていた。ポケットから、さっきセロテープで貼り合わせたばかりの電車の乗車券を取り出して見た。確かにそれは、お茶の湯駅発の電車の乗車券だった。だが、お茶の湯駅は、もう無い。当たり前だ。一度無くなったものが、もとに戻っているはずがない。では、このインチキの乗車券は一体、誰が作ったのか。もういい。おれは疲れていただけなのだ。それでちょっと、気晴らしに、いつもは出かけて行かないような所に行ってみたくなった。ただ、それだけの事だったのだ。
がっかりしたおれは、一度取り出したチケットをまたポケットに突っ込むと、アパートへの道を帰り始めた。心の中は虚しさと、奇妙な怒りとで満ち溢れていた。ところが、帰りの道に向かったとたん、最初の信号がいきなり赤になった。おいおい、いったい、どう言うことなんだ、これは。行きの道はずっと青で、一度も赤にならなかったと言うのに。おれは心の中で、思わず叫び声を上げた。ところが、いつまで待っても信号が青にならない。何かおかしいぞ。この信号、壊れてるんじゃないのか。そう思って、ふと周囲を見回すと、何とすぐそばに、地下道の入り口がある。なーんだ。ここを通って行けば、いいって事か。それでここの信号は、なかなか変わらないのか。しかし、さっきここを通った時は、地下道があるのには気がつかなかったが。
いつの間に、こんな所に地下道が出来ていたのだろうか。と思って、入り口をよく見ると、「お茶の湯駅」と書いてある。な、なんとこれは一体、どーいう事なのだ。要するに、お茶の湯駅は地下鉄の駅になっていたと言うことなのか。まあいい。とにかく、お茶の湯駅は、今もちゃんとあるという事だ。と言うことは、このチケットは本物だという事か。
◆ 何だかよく分からないまま、ポケットの中にさっきのチケットがちゃんとあるのを確かめると、おれは地下鉄の階段を下り始めた。よかった。さっき、チケットを投げ捨てていたら、それでおしまいだった。おれは内心、ほっとした。
ところが、階段を下りようとしたとたん、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、まともに目を開けていられなくなった。仕方なくおれは、後ろ向きになって、地下鉄の階段を一段一段、ゆっくりと下り始めた。ところがそれが、どこまで下りて行っても、階段が終わりになる気配が無い。本当にこの階段は、地下鉄の駅に通じているのだろうか。おれはだんだん、心配になって来た。そこで、階段の先がどうなっているのかを振り向いて見ようとすると、また、ものすごい突風が吹き上げて来て、目を開けていられなくなる。それでおれは、ずっと後ろ向きの格好のままで、地下鉄の階段を一段一段下り続けた。
◆ どれくらい、階段を下りて行っただろうか。次第に周囲が明るくなって来て、階段が終わりに近づいているのが分かるようになった。しばらくすると、やっと階段が終わった。はじめておれは前方を向いて、地下鉄の駅の構内を見渡した。いつの間にか、風が止んでいた。おれの目の前には、広々とした地下鉄のホームが広がっていて、今まで見た事の無いような新型の車両が並んでいた。これは、蒸気機関車どころじゃなかったな。おれは内心、笑ってしまった。ところで、改札口はどこにあるのだろう。おれの乗る電車は、一体、どこに停まっているのだろうか。
広い地下鉄の駅の構内を歩き続けていると、やっと改札口の表示のある場所が見つかった。と思った所で、自分の持っている乗車券は、セロテープで繋ぎ合わせた物だった事を思い出して、急におれは不安になった。しかも、着いてみると改札口は自動になっている。おいおい、これでは、セロテープで繋ぎ合わせたような乗車券では、ここは通れないぞ。と思って再びポケットから自分の乗車券を取り出して見て、はじめて、これが磁気カードになっている事に気がついた。なんと、まったく今まで気づかないでいた、こんな事。磁気の部分を思いっきりハサミで切り離してしまった乗車券では、自動改札口を通れるはずがない。何とかしなくては。と思って、ほかの改札口が無いかどうか、あちこち回って見たが、やっぱり自動改札口しかない。と言うより、ここの駅には駅員はいないのか。なんだか、どこにも人影が見えないが。
と、そこでふと改札口の時計を見ると、なんと時計の針が六時五十九分を指している。しまった。もう時間が無い。時間の事をすっかり忘れていた。おれはあわてて、セロテープで繋ぎ合わせた乗車券を自動改札口に挿し込んだ。その瞬間、改札口の機械がシュルシュルシュルッと音をたて、改札口の扉がかぱっと大きく開いた。え、うそ。まるで、夢を見ているみたいだ。おれはそのまま、改札口を通り抜けた。よっぽどうまく、セロテープで貼り合わせたらしい。とかなんとか思いながら。
◆ ちょうど改札口を通り抜けた所で、七時を知らせるチャイムが広い構内に響き渡った。その後、しばらくして構内にアナウンスが流れた。
◇◇ 夜汽車の旅に出発されるお客様は、三番線に停車中の電車に急いでご乗車ください。 ◇◇
あ、これだこれだ。やっぱり、夜汽車の旅と言うのは本当だったんだ。おれは三番線のホームを見つけると、急いで構内を駆け抜けて、停車中の電車の最後尾のドアから電車の中に駆け込んだ。おれが電車に乗ると同時にドアが閉まって、ゆっくりと電車が動き出した。どうやら、ほかの乗客はとっくに乗車していて、おれが最後だったという事らしい。
と思って電車の車室に入って行くと、妙な事にどこにも人影が無い。あれれ、この車両には誰も人が乗っていないのか。おれはそのまま、車室の通路をずんずん通り抜けて行って、次の車両に移ったが、次の車両にも人影はまったく無かった。あれれ、ここも誰も人が乗っていない。一体、どの車両に人が乗っているのだ。おれは不思議に思って、次々と車両を移って行ったが、次の車両も、その次の車両も、そのまた次の車両も、どこにも人は乗っていない。とうとう、先頭の車両に着いてしまった。結局、自分以外にはこの電車には、ひとりも乗客は乗っていなかったのか。それにしても、先頭の車両は見晴らしがいいな。地下鉄だと思っていたら、いつの間にか高架の上を走っている。これって新幹線なのか。それとも、もしかして、モノレールか。
◆ しばらく先頭の座席に腰掛けて、前方の変わり行く景色を眺めていたおれは、そのうちふと、ひょっとして誰かが途中の座席に座っていたのを、見逃したりしていなかっただろうか、と思ってもう一度、今来た通路を電車の後方に向かって歩いて行って見る事にした。
おれは座席から立ち上がると、車両の後方に向かって、再び通路を歩き始めた。と、その時、一人の乗客とぴたりと目が合った。目が合うと同時に、その人がにっこりと笑った。何だ、ちゃんとほかにも乗っている人がいるじゃないか。と思って近づいて行くと、何と、高校時代の同級生の本山美香じゃないか。しかも、おれに向かって手招きしている。
おれは招かれるままに、同級生の真向かいの座席に腰掛けた。
「中山君、お久しぶりね。」
と、同級生がおれに向かってにっこりと微笑んだ。高校の時と何も変わっていない。昔の本山美香そのままだ。と言うことは、以前、電車の中でたびたび見かけた、本山美香によく似た女の人は、やはり、まったくの別人だったのか。
予期せぬ突然の出会いで、おれの頭の中はしばらく混線状態になったが、同級生は、おれのそんなようすなど、一向に気にする気配は無かった。
「今、専門学校に通っているの?」
急に同級生が聞いて来たので、
「え、どうしてそんな事知っているの?」 と、おれは思わず驚いて、口に出してしまった。
「だって、高校の同窓会名簿にちゃんと書いてあったじゃないの。」
と、同級生は笑った。
そんなもの、一度も書いて出した覚えは無いのに。そうか。うちの親父が勝手に気を利かせて、同窓会の返信葉書に書いて出していたのか。まったく、余計な事をしてくれる。と、そんな事をあれこれと考えているうちに、目の前の同級生の事が気になって来た。
「ところで、本山さんは今、大学に行っているんだよね。ええと、どこの大学に行ってるんだっけ?」
と、おれが聞くと、同級生は急に下を向いて、
「うん、そうね。ちょっと今、休んでいるけどね。」
と、力無く答えた。
「いいねえ、さすがに大学はのびのびとしていて。おれも大学に行けたらよかったな。」
と、おれが大声で笑うと、同級生はほっとした様子で一緒に笑った。
しばらくして、外の景色がやけにはっきりと見える事にやっと気がついたおれは、
「あれっ、もしかして今夜は満月なのかな。」
と、思わず独り言のように口に出すと、目の前の同級生が黙ってうなずいた。そう言えば、たしか、月曜日の夜が満月だったから、しばらく月の明るい夜が続いているのだな。おれは黙って、月の光に照らされた、変わり行く窓の外の景色を眺めていた。
それからしばらくすると、窓の外に少しずつ、白い霧が立ち込めて来た。
「あれっ。これって、蒸気機関車の蒸気と一緒だな。やっぱり今夜は、夜汽車の旅だったんだな。」
思わずおれは口に出した。すると同級生は、急に声を上げて笑い出した。そして、
「中山君って、本当に面白い人なのね。」
と、微笑みながらおれの目を見詰めた。そんなに今のが面白かったのかな。女の人って、よく分からないな。と、おれは思った。それからだんだんと、外の霧が広がって行くのをしばらく見ていたおれは、
「まるで天国の上を走っているみたいだ。」
と、思わずつぶやいた。
ふと、同級生の方を見ると、さっきまで笑っていた同級生は、いつの間にか顔を伏せていた。どうかしたのだろうか。おれは何も、変な事は言っていないんだけど。と思っていると、やがて顔を伏せている同級生の目から、大粒の涙がぽたぽたと落ち始めた。
2005.08.31 記事公開
ところが、ドアを開けようとすると、ドアがまったく動かない。おかしい。どこもロックをしていないのに。取っ手を回して、力いっぱいドアを押すと、ほんの少し開きかけて、すぐに閉まってしまう。まるで誰かが、外からドアを押し返しているかのようだ。まさか、おれが隣の部屋の住人に届いた手紙を勝手に取り出して開けてしまったので、怒り狂った隣の男が、おれが外に出られないように邪魔しているのでは・・・。おれは一瞬、ぎくりとした。おれは、自分の背中をドアに当て、後ろ向きになって、思いっ切りドアを押した。その瞬間、ドアが勢いよく開いて、おれはドアの外の階段の手前で、仰向けになってひっくり返った。もう少しで頭を打つところだった。周りを見回すと、特に人がいたような気配は無い。
おかしい。さっきのは、何だったんだ。不思議に思いながら、おれは自分の部屋のドアに鍵を掛けると、階段を下りようとした。ところがその瞬間、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、眼を開けていられなくなった。それでおれは、後ろ向きになって、階段を下り始めた。するとその時、おれの隣の部屋の入り口のドアが開いた。まさか。あの部屋はずっと、空き部屋になっていたはずなのに。いつの間に、人が入っていたんだ。それとも、アパートの家主が部屋の中を見に来ていたのだろうか。と思っていると、中年の男があわてたようすで、開いたドアから顔を出した。あっ、あの人。月曜日の真夜中に、おれを車に乗せてくれた人。やっぱり、あの部屋にずっと住んでいたのか。え、何で?と、何が何だかわけが分からなくなりかけた時、
「あんた。もしかして、わしのとこに来た郵便、間違って持って行っとらんかね。」
と、男がおれに向かって大声で叫んだ。あ。やっぱり、あの手紙の事だったのか。やっぱり、勝手に取り出してはいけなかったのだ。しまった。今すぐ謝らなくては。と、おれはあわてて
「あっ、すみません。申しわけありませんでしたあ。」
と、大声で答えると、下りかけた階段をまた、上ろうとした。その時、ものすごい突風が吹き荒れて、男はあわてて顔を引っ込めた。その瞬間、大きな音をたててドアが閉まった。その後はどれだけたっても、男は二度と、顔を出さなかった。
◆ 強い風が階段の下から吹き上げて来るので、おれは後ろ向きのままで、壁に寄り掛かりながら、階段を下りて行った。やっとアパートの外に出ると、風は止んでいた。さっきの強い風はいったい、何だったんだろう。不思議に思いながら、自分のアパートを見上げると、どの部屋の窓も皆、カーテンが閉めてある。これは以前、はじめてにこにこ鉄道に出かけて行った晩と、まったく同じだ。だが今度は、歩いてお茶の湯駅まで行かないといけない。おれは、お茶の湯駅に向かって歩き始めた。不思議な事に、今度もやはり、途中の信号はずっと青だった。一度も途中で信号待ちをする事もなく、おれは歩き続けて行った。ところで、お茶の湯駅はだいぶ前にホームが取り壊されていたが、一体、今はどうなっているのだろうか。おれはよく分からなかった。もしかしたら、もとのお茶の湯駅にいつの間にか戻っているのかも知れない。あるいは、ひょっとしたら、本当の蒸気機関車が停まっていたりして。
何か、今までになかった何かと、今夜は出会えるような気がする。おれは次第に胸をわくわくさせて行って、いつの間にか小走りに駅に向かっていた。
◆ やっとお茶の湯駅があった場所に着いた時、おれは唖然とした。そこには駅は無く、レールも無かった。当然の事だった。だいぶ前に、駅が壊されているのをこの目で見て来ているのだから。おれは自分で、自分に呆れ返っていた。ポケットから、さっきセロテープで貼り合わせたばかりの電車の乗車券を取り出して見た。確かにそれは、お茶の湯駅発の電車の乗車券だった。だが、お茶の湯駅は、もう無い。当たり前だ。一度無くなったものが、もとに戻っているはずがない。では、このインチキの乗車券は一体、誰が作ったのか。もういい。おれは疲れていただけなのだ。それでちょっと、気晴らしに、いつもは出かけて行かないような所に行ってみたくなった。ただ、それだけの事だったのだ。
がっかりしたおれは、一度取り出したチケットをまたポケットに突っ込むと、アパートへの道を帰り始めた。心の中は虚しさと、奇妙な怒りとで満ち溢れていた。ところが、帰りの道に向かったとたん、最初の信号がいきなり赤になった。おいおい、いったい、どう言うことなんだ、これは。行きの道はずっと青で、一度も赤にならなかったと言うのに。おれは心の中で、思わず叫び声を上げた。ところが、いつまで待っても信号が青にならない。何かおかしいぞ。この信号、壊れてるんじゃないのか。そう思って、ふと周囲を見回すと、何とすぐそばに、地下道の入り口がある。なーんだ。ここを通って行けば、いいって事か。それでここの信号は、なかなか変わらないのか。しかし、さっきここを通った時は、地下道があるのには気がつかなかったが。
いつの間に、こんな所に地下道が出来ていたのだろうか。と思って、入り口をよく見ると、「お茶の湯駅」と書いてある。な、なんとこれは一体、どーいう事なのだ。要するに、お茶の湯駅は地下鉄の駅になっていたと言うことなのか。まあいい。とにかく、お茶の湯駅は、今もちゃんとあるという事だ。と言うことは、このチケットは本物だという事か。
◆ 何だかよく分からないまま、ポケットの中にさっきのチケットがちゃんとあるのを確かめると、おれは地下鉄の階段を下り始めた。よかった。さっき、チケットを投げ捨てていたら、それでおしまいだった。おれは内心、ほっとした。
ところが、階段を下りようとしたとたん、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、まともに目を開けていられなくなった。仕方なくおれは、後ろ向きになって、地下鉄の階段を一段一段、ゆっくりと下り始めた。ところがそれが、どこまで下りて行っても、階段が終わりになる気配が無い。本当にこの階段は、地下鉄の駅に通じているのだろうか。おれはだんだん、心配になって来た。そこで、階段の先がどうなっているのかを振り向いて見ようとすると、また、ものすごい突風が吹き上げて来て、目を開けていられなくなる。それでおれは、ずっと後ろ向きの格好のままで、地下鉄の階段を一段一段下り続けた。
◆ どれくらい、階段を下りて行っただろうか。次第に周囲が明るくなって来て、階段が終わりに近づいているのが分かるようになった。しばらくすると、やっと階段が終わった。はじめておれは前方を向いて、地下鉄の駅の構内を見渡した。いつの間にか、風が止んでいた。おれの目の前には、広々とした地下鉄のホームが広がっていて、今まで見た事の無いような新型の車両が並んでいた。これは、蒸気機関車どころじゃなかったな。おれは内心、笑ってしまった。ところで、改札口はどこにあるのだろう。おれの乗る電車は、一体、どこに停まっているのだろうか。
広い地下鉄の駅の構内を歩き続けていると、やっと改札口の表示のある場所が見つかった。と思った所で、自分の持っている乗車券は、セロテープで繋ぎ合わせた物だった事を思い出して、急におれは不安になった。しかも、着いてみると改札口は自動になっている。おいおい、これでは、セロテープで繋ぎ合わせたような乗車券では、ここは通れないぞ。と思って再びポケットから自分の乗車券を取り出して見て、はじめて、これが磁気カードになっている事に気がついた。なんと、まったく今まで気づかないでいた、こんな事。磁気の部分を思いっきりハサミで切り離してしまった乗車券では、自動改札口を通れるはずがない。何とかしなくては。と思って、ほかの改札口が無いかどうか、あちこち回って見たが、やっぱり自動改札口しかない。と言うより、ここの駅には駅員はいないのか。なんだか、どこにも人影が見えないが。
と、そこでふと改札口の時計を見ると、なんと時計の針が六時五十九分を指している。しまった。もう時間が無い。時間の事をすっかり忘れていた。おれはあわてて、セロテープで繋ぎ合わせた乗車券を自動改札口に挿し込んだ。その瞬間、改札口の機械がシュルシュルシュルッと音をたて、改札口の扉がかぱっと大きく開いた。え、うそ。まるで、夢を見ているみたいだ。おれはそのまま、改札口を通り抜けた。よっぽどうまく、セロテープで貼り合わせたらしい。とかなんとか思いながら。
◆ ちょうど改札口を通り抜けた所で、七時を知らせるチャイムが広い構内に響き渡った。その後、しばらくして構内にアナウンスが流れた。
◇◇ 夜汽車の旅に出発されるお客様は、三番線に停車中の電車に急いでご乗車ください。 ◇◇
あ、これだこれだ。やっぱり、夜汽車の旅と言うのは本当だったんだ。おれは三番線のホームを見つけると、急いで構内を駆け抜けて、停車中の電車の最後尾のドアから電車の中に駆け込んだ。おれが電車に乗ると同時にドアが閉まって、ゆっくりと電車が動き出した。どうやら、ほかの乗客はとっくに乗車していて、おれが最後だったという事らしい。
と思って電車の車室に入って行くと、妙な事にどこにも人影が無い。あれれ、この車両には誰も人が乗っていないのか。おれはそのまま、車室の通路をずんずん通り抜けて行って、次の車両に移ったが、次の車両にも人影はまったく無かった。あれれ、ここも誰も人が乗っていない。一体、どの車両に人が乗っているのだ。おれは不思議に思って、次々と車両を移って行ったが、次の車両も、その次の車両も、そのまた次の車両も、どこにも人は乗っていない。とうとう、先頭の車両に着いてしまった。結局、自分以外にはこの電車には、ひとりも乗客は乗っていなかったのか。それにしても、先頭の車両は見晴らしがいいな。地下鉄だと思っていたら、いつの間にか高架の上を走っている。これって新幹線なのか。それとも、もしかして、モノレールか。
◆ しばらく先頭の座席に腰掛けて、前方の変わり行く景色を眺めていたおれは、そのうちふと、ひょっとして誰かが途中の座席に座っていたのを、見逃したりしていなかっただろうか、と思ってもう一度、今来た通路を電車の後方に向かって歩いて行って見る事にした。
おれは座席から立ち上がると、車両の後方に向かって、再び通路を歩き始めた。と、その時、一人の乗客とぴたりと目が合った。目が合うと同時に、その人がにっこりと笑った。何だ、ちゃんとほかにも乗っている人がいるじゃないか。と思って近づいて行くと、何と、高校時代の同級生の本山美香じゃないか。しかも、おれに向かって手招きしている。
おれは招かれるままに、同級生の真向かいの座席に腰掛けた。
「中山君、お久しぶりね。」
と、同級生がおれに向かってにっこりと微笑んだ。高校の時と何も変わっていない。昔の本山美香そのままだ。と言うことは、以前、電車の中でたびたび見かけた、本山美香によく似た女の人は、やはり、まったくの別人だったのか。
予期せぬ突然の出会いで、おれの頭の中はしばらく混線状態になったが、同級生は、おれのそんなようすなど、一向に気にする気配は無かった。
「今、専門学校に通っているの?」
急に同級生が聞いて来たので、
「え、どうしてそんな事知っているの?」 と、おれは思わず驚いて、口に出してしまった。
「だって、高校の同窓会名簿にちゃんと書いてあったじゃないの。」
と、同級生は笑った。
そんなもの、一度も書いて出した覚えは無いのに。そうか。うちの親父が勝手に気を利かせて、同窓会の返信葉書に書いて出していたのか。まったく、余計な事をしてくれる。と、そんな事をあれこれと考えているうちに、目の前の同級生の事が気になって来た。
「ところで、本山さんは今、大学に行っているんだよね。ええと、どこの大学に行ってるんだっけ?」
と、おれが聞くと、同級生は急に下を向いて、
「うん、そうね。ちょっと今、休んでいるけどね。」
と、力無く答えた。
「いいねえ、さすがに大学はのびのびとしていて。おれも大学に行けたらよかったな。」
と、おれが大声で笑うと、同級生はほっとした様子で一緒に笑った。
しばらくして、外の景色がやけにはっきりと見える事にやっと気がついたおれは、
「あれっ、もしかして今夜は満月なのかな。」
と、思わず独り言のように口に出すと、目の前の同級生が黙ってうなずいた。そう言えば、たしか、月曜日の夜が満月だったから、しばらく月の明るい夜が続いているのだな。おれは黙って、月の光に照らされた、変わり行く窓の外の景色を眺めていた。
それからしばらくすると、窓の外に少しずつ、白い霧が立ち込めて来た。
「あれっ。これって、蒸気機関車の蒸気と一緒だな。やっぱり今夜は、夜汽車の旅だったんだな。」
思わずおれは口に出した。すると同級生は、急に声を上げて笑い出した。そして、
「中山君って、本当に面白い人なのね。」
と、微笑みながらおれの目を見詰めた。そんなに今のが面白かったのかな。女の人って、よく分からないな。と、おれは思った。それからだんだんと、外の霧が広がって行くのをしばらく見ていたおれは、
「まるで天国の上を走っているみたいだ。」
と、思わずつぶやいた。
ふと、同級生の方を見ると、さっきまで笑っていた同級生は、いつの間にか顔を伏せていた。どうかしたのだろうか。おれは何も、変な事は言っていないんだけど。と思っていると、やがて顔を伏せている同級生の目から、大粒の涙がぽたぽたと落ち始めた。
2005.08.31 記事公開
夜汽車 8 夏の思い出
◆ あれっ、どうなってしまったんだ。おれは内心、あわてふためいた。同級生に何と言って声をかけていいのやら、何を謝ったらいいのやら、何が起こったのやら、わけが分からなくなって、おれの頭の中は混乱して行った。
と、その時、何者かがおれの背後から、おれの肩をぽんぽんと叩くのを感じた。おれはぎょっとした。この車両に、まだ誰か、ほかにも人間が乗っていたのか。一体、どこに今まで隠れていたんだ。おれは思わず振り向いた。すると、いつの間にか電車の車掌が、おれの座席のすぐ後ろに立っていた。
「お客さん。その乗車券は無効ですよ。」
いきなり車掌が、おれの目をにらみつけるようにして言った。ぎょっ。こいつ、おれのチケットがセロテープで貼り合わせてある事を知っていたのか。しかし、自動改札口はちゃんと通れたし。あ、もしかして、あの改札口を通った時に、もうバレていたのか。困った。どうしようか。と、おれがおろおろしていると、
「さあ、さあ。今すぐ、この電車から降りて下さい。」
と、車掌は突然、おれの襟をつかんで、力ずくでおれを車室から引っ張り出そうとした。
「あああ。ちょ、ちょっと待って下さい。電車が走っている時に、外に放り出されたら、死んでしまうじゃないですか。」
と、思わずおれは叫び声を上げた。するとその時、車掌の顔つきが変わった。
「あなた、今までに何度も、我々の車庫に忍び込もうとしましたね。でももう、これからはそんな苦労はしなくてもいいんですよ。今からあなたは、我々の仲間になれるんですよ。」
車掌は、不気味な笑みを浮かべながら、おれの胸ぐらをつかんでぐいぐいと引っ張って行った。あああ。おれは、同級生の助けを求めようとしたが、いつの間にか、同級生の姿は見えなくなっていた。
おれは必死になって抵抗しようとしたが、まるで力が出て来ない。いつの間にか、車室を通り抜けて、電車のドアの前まで、あれよあれよと言う間に引っ張り出されていた。見ると、ドアの外は真っ白の霧で、ほかには何も見えない。
「さあ、何も怖がることはないですよ。少しも痛くはありませんから、安心してください。」
車掌はそう言うと、電車の中のどこかのスイッチを押した。すると、目の前のドアが大きく開いて、激しい風と濃い霧が電車の中に吹き込んで来た。と同時に、どこか鉄橋の上を走っているような、ものすごい音が響き渡って来た。
「あっ。」
気がつくとおれは、電車の外の濃い霧の中に放り出されていた。あっ、もうだめだ。これで終わりだ。おれは濃い霧の中を深い谷間の底に向かって、延々と落ち続けて行った。
◆ 「お客さん。お客さん。大丈夫ですか。」
いつまで落ちて行っても、なかなか地面にぶつからないので、よっぽど高い所から突き落とされたんだな。と、ずーっと思っていたおれは、さっきから誰かに体を揺すられ続けて、やっと長い眠りから目覚めた。
「やっと、目が覚めたみたいやね。ずい分長いこと、寝言を言い続けとったでねえ。」
目覚めたばかりのおれは、まだぼんやりとした夢の続きの世界にいた。見ると、おれの目の前には、電車の車掌と一人の乗客が呆れ果てたような顔をして立っている。さっき、電車の外に放り出されたばかりなのに、何でまた座席に戻っているんだ。おれはまだ、夢と現実の間をさ迷っていた。
「もう、大丈夫やろ。」
目の前にいた乗客はそう言うと、重そうなトランクを引きずりながら車室から出て行った。
「さあ、お客さん。もう、終点に着きましたから、荷物を持って降りて下さい。」
車掌はそう言うと、荷棚から大きなバッグを下ろした。え、荷物なんて、おれは持って来てないぞ。おれがけげんな顔をすると、車掌は下ろしたバッグをおれの目の前に置いた。よく見ると、確かにおれのバッグだった。いつの間に、バッグなんか持って来ていたんだろうか。まだ、よく分からなかったが、おれは車掌に言われる通りに、やっと座席から立ち上がった。
見ると、電車の中は、おれと車掌以外には誰もいない。ホームからは、この電車はこの後、回送電車になりますので、ご乗車できません。というアナウンスが繰り返し聞こえて来る。そのうち、清掃作業の人がワゴンを押しながら入って来て、荷棚や座席の上に乗客が残して行った新聞や雑誌や空き缶やらを片付け始めた。どうやら、電車の終点に着いたと言うのは、本当のようだ。ようやくおれは納得して、バッグを肩に掛けると、乗っていた電車を降りた。
ホームに降りると、すぐ近くにベンチがあったので、おれはすぐベンチに腰掛けた。一体、自分は何故、ここに来ているのだろうか。と、ぼんやりと考えているうちに、自分は三週間の実習を昨日終えたばかりで、盆の里帰りの途中だったという事をようやく思い出した。それにしても、さっきまでずーっと見ていた夢が、今だに現実の事のように感じられる。三週間の実習が、なんだかもっと、ずっと長い期間だったような気がする。しかし、帰省の電車の中で居眠りしていた、ほんの短い時間の中で、よくあれだけ長い夢が見れたものだ。
ようやくおれはベンチから立ち上がると、両親が待っている家に帰るため、ローカル線のホームに向かった。
◆ ローカル線を乗り継いで、ようやく故郷の駅に到着したおれは、バッグを肩に掛けたまま、狭い駅の中の通路を歩いて行った。それにしても、狭い駅だな。昔はもっと、広かったような気がするが。何だか自分が、だんだん何かの錯覚に陥って行くような感じがした。
駅の玄関口を出て、駅前のバス乗り場に来たおれは、バスを待つしばらくの間、駅前の寂れた町並みを眺めていた。何か、町全体が疲れているように見えた。やっと来たバスに乗ると、乗っている人たちはお年寄りが多かった。バスが走り始めたが、バスの中から見る町並みも、古びた建物が多かった。途中、市内を流れる川を渡る橋を通った。久しぶりに見るこの川は、どうなっているだろうか。おれは、バスの窓から食い入るように外を見た。広い川原の中に、一筋の細い水の流れがあった。何と、いつの間にこの川は、こんなに細くなってしまっていたのだ。これなら、走って行ってジャンプしたら、跳び越えてしまえそうだ。もっと、もっと、すごく幅の広い、大きな川だったはずなのに。自分の中にあった故郷の思い出と、現実との違いに、おれはしばらく呆然としていた。
◆ やっと、自分が生まれ育った家に着いた時には、もう日が暮れかかっていた。さっそく迎えに出て来た父親が、たった今、親戚の叔父さんが帰って行ったところだと言って残念がった。家の中に入ると、父と母以外には誰もいなかった。姉は帰って来ていないのかと聞くと、ずっと前から家に帰って来ていたけど、明日から仕事が始まるとか言って、今日の昼過ぎに出て行ったと言う。お盆だと言うのに、家の中はがらんとしていた。台所で冷たいお茶を飲んでいると、忘れないうちにお墓参りに行って来い。と言われて、線香とライターを渡された。おれが、明日の朝には、もしかしたら、別の所に出かけて行ってしまっているかも知れない、とでも思っているようだ。渡された物を受け取ると、おれはそのまま墓に出かけて行った。
家から少し歩いた所にある墓地に行くと、外灯がついていて、結構、墓地の中は明るかった。それにしても、狭い墓地だ。両隣りが小さな町工場なので、余計に狭く感じるが。
さっさとお参りを済ませて、家まで歩いて帰る道の途中でふと、今日の電車の中で見た夢の中の、延々と地の果てまで続く平らな地面の光景が、偶然にも頭の中に蘇って来た。どうして町内の墓地が狭苦しく見えたのか、分かったような気がした。
家に帰って、三人で夕食を済ませた後、おれは一人で、応接室のソファに腰掛けたまま、ぼんやりと考え事をしていた。そのうち、秋の終わりまでには自分の就職先を決めないといけない事を思い出して、急におれは憂鬱になって来た。昨日まで三週間行っていた実習先の会社の仕事も悪くはなかったが、自分が本当にやりたいと思っている事とは、何か違う気がした。
出来る事なら、大学に入り直したい。でもそんな事は、現実にはできない。だんだんおれは、どうしたらいいのか分からなくなって来た。学校に通って勉強だけしていればよかった今までの人生が、急になつかしくなったおれは、ソファから立ち上がると、階段を上って、自分が高校時代まで使っていた二階の勉強部屋に入ってみた。
部屋の中には、自分が昔使っていた机や本棚が、そのまま残っていた。おれは椅子に腰掛けると、しばらく部屋の中をぼんやりと眺めた。それから、机の引出しを一つ一つ開けては、何が中に入っているのかを確かめて見たが、入っているのは使い道の無い小物ばかりだった。
もういい。悩んでばかりいても仕方ない。下へ行って、テレビでも見てようか。そう思ったおれは、椅子から立ち上がって、部屋を出ようとして、ふと本棚を見ると、大きな封筒が本と本の間に押し込んである。何だ、これは。と思って取り出して見ると、高校の同窓会名簿だった。ああ、こんな物、今のおれには関係無い。と思って、封筒を机の上に置いたまま部屋を出ようとしたが、ふと、自分の事がどのように書いてあるのかが気になって、封を破って同窓会名簿を開いて見た。名簿の中の自分の欄には、家の住所と家の電話番号以外には、何も書いてなかった。
よかった。何も、余計な事は書いてなかった。おれは安心すると、部屋を出て階段を下り始めたが、下りる途中で、待てよ、と思い、立ち止まった。気になる事が、もう一つある。そう思ったおれは再び階段を上り、部屋の机の上に置いた名簿をもう一度開けて見た。夢の中で会った同級生の欄を急いで探してみると、住所も電話番号も、すべての欄が空欄になっていた。どうして空欄になっているのだろうか。名簿をめくって行くと、ほかにも所々に空欄になっている人がいる。よく分からない。何の事やらさっぱり。おれはあきらめて名簿を閉じた。この人たちは、どこかに引っ越してしまっていて、もう連絡がつかなくなっているのだ。やっと、おれは悟った。
おれはがっくりと来て、全身のすべての力が抜けてしまったような感じになった。
「仕事なんてもう、何でもいいんだよ。」
おれは思わず、そうつぶやいた。
2005.10.08 記事公開
と、その時、何者かがおれの背後から、おれの肩をぽんぽんと叩くのを感じた。おれはぎょっとした。この車両に、まだ誰か、ほかにも人間が乗っていたのか。一体、どこに今まで隠れていたんだ。おれは思わず振り向いた。すると、いつの間にか電車の車掌が、おれの座席のすぐ後ろに立っていた。
「お客さん。その乗車券は無効ですよ。」
いきなり車掌が、おれの目をにらみつけるようにして言った。ぎょっ。こいつ、おれのチケットがセロテープで貼り合わせてある事を知っていたのか。しかし、自動改札口はちゃんと通れたし。あ、もしかして、あの改札口を通った時に、もうバレていたのか。困った。どうしようか。と、おれがおろおろしていると、
「さあ、さあ。今すぐ、この電車から降りて下さい。」
と、車掌は突然、おれの襟をつかんで、力ずくでおれを車室から引っ張り出そうとした。
「あああ。ちょ、ちょっと待って下さい。電車が走っている時に、外に放り出されたら、死んでしまうじゃないですか。」
と、思わずおれは叫び声を上げた。するとその時、車掌の顔つきが変わった。
「あなた、今までに何度も、我々の車庫に忍び込もうとしましたね。でももう、これからはそんな苦労はしなくてもいいんですよ。今からあなたは、我々の仲間になれるんですよ。」
車掌は、不気味な笑みを浮かべながら、おれの胸ぐらをつかんでぐいぐいと引っ張って行った。あああ。おれは、同級生の助けを求めようとしたが、いつの間にか、同級生の姿は見えなくなっていた。
おれは必死になって抵抗しようとしたが、まるで力が出て来ない。いつの間にか、車室を通り抜けて、電車のドアの前まで、あれよあれよと言う間に引っ張り出されていた。見ると、ドアの外は真っ白の霧で、ほかには何も見えない。
「さあ、何も怖がることはないですよ。少しも痛くはありませんから、安心してください。」
車掌はそう言うと、電車の中のどこかのスイッチを押した。すると、目の前のドアが大きく開いて、激しい風と濃い霧が電車の中に吹き込んで来た。と同時に、どこか鉄橋の上を走っているような、ものすごい音が響き渡って来た。
「あっ。」
気がつくとおれは、電車の外の濃い霧の中に放り出されていた。あっ、もうだめだ。これで終わりだ。おれは濃い霧の中を深い谷間の底に向かって、延々と落ち続けて行った。
◆ 「お客さん。お客さん。大丈夫ですか。」
いつまで落ちて行っても、なかなか地面にぶつからないので、よっぽど高い所から突き落とされたんだな。と、ずーっと思っていたおれは、さっきから誰かに体を揺すられ続けて、やっと長い眠りから目覚めた。
「やっと、目が覚めたみたいやね。ずい分長いこと、寝言を言い続けとったでねえ。」
目覚めたばかりのおれは、まだぼんやりとした夢の続きの世界にいた。見ると、おれの目の前には、電車の車掌と一人の乗客が呆れ果てたような顔をして立っている。さっき、電車の外に放り出されたばかりなのに、何でまた座席に戻っているんだ。おれはまだ、夢と現実の間をさ迷っていた。
「もう、大丈夫やろ。」
目の前にいた乗客はそう言うと、重そうなトランクを引きずりながら車室から出て行った。
「さあ、お客さん。もう、終点に着きましたから、荷物を持って降りて下さい。」
車掌はそう言うと、荷棚から大きなバッグを下ろした。え、荷物なんて、おれは持って来てないぞ。おれがけげんな顔をすると、車掌は下ろしたバッグをおれの目の前に置いた。よく見ると、確かにおれのバッグだった。いつの間に、バッグなんか持って来ていたんだろうか。まだ、よく分からなかったが、おれは車掌に言われる通りに、やっと座席から立ち上がった。
見ると、電車の中は、おれと車掌以外には誰もいない。ホームからは、この電車はこの後、回送電車になりますので、ご乗車できません。というアナウンスが繰り返し聞こえて来る。そのうち、清掃作業の人がワゴンを押しながら入って来て、荷棚や座席の上に乗客が残して行った新聞や雑誌や空き缶やらを片付け始めた。どうやら、電車の終点に着いたと言うのは、本当のようだ。ようやくおれは納得して、バッグを肩に掛けると、乗っていた電車を降りた。
ホームに降りると、すぐ近くにベンチがあったので、おれはすぐベンチに腰掛けた。一体、自分は何故、ここに来ているのだろうか。と、ぼんやりと考えているうちに、自分は三週間の実習を昨日終えたばかりで、盆の里帰りの途中だったという事をようやく思い出した。それにしても、さっきまでずーっと見ていた夢が、今だに現実の事のように感じられる。三週間の実習が、なんだかもっと、ずっと長い期間だったような気がする。しかし、帰省の電車の中で居眠りしていた、ほんの短い時間の中で、よくあれだけ長い夢が見れたものだ。
ようやくおれはベンチから立ち上がると、両親が待っている家に帰るため、ローカル線のホームに向かった。
◆ ローカル線を乗り継いで、ようやく故郷の駅に到着したおれは、バッグを肩に掛けたまま、狭い駅の中の通路を歩いて行った。それにしても、狭い駅だな。昔はもっと、広かったような気がするが。何だか自分が、だんだん何かの錯覚に陥って行くような感じがした。
駅の玄関口を出て、駅前のバス乗り場に来たおれは、バスを待つしばらくの間、駅前の寂れた町並みを眺めていた。何か、町全体が疲れているように見えた。やっと来たバスに乗ると、乗っている人たちはお年寄りが多かった。バスが走り始めたが、バスの中から見る町並みも、古びた建物が多かった。途中、市内を流れる川を渡る橋を通った。久しぶりに見るこの川は、どうなっているだろうか。おれは、バスの窓から食い入るように外を見た。広い川原の中に、一筋の細い水の流れがあった。何と、いつの間にこの川は、こんなに細くなってしまっていたのだ。これなら、走って行ってジャンプしたら、跳び越えてしまえそうだ。もっと、もっと、すごく幅の広い、大きな川だったはずなのに。自分の中にあった故郷の思い出と、現実との違いに、おれはしばらく呆然としていた。
◆ やっと、自分が生まれ育った家に着いた時には、もう日が暮れかかっていた。さっそく迎えに出て来た父親が、たった今、親戚の叔父さんが帰って行ったところだと言って残念がった。家の中に入ると、父と母以外には誰もいなかった。姉は帰って来ていないのかと聞くと、ずっと前から家に帰って来ていたけど、明日から仕事が始まるとか言って、今日の昼過ぎに出て行ったと言う。お盆だと言うのに、家の中はがらんとしていた。台所で冷たいお茶を飲んでいると、忘れないうちにお墓参りに行って来い。と言われて、線香とライターを渡された。おれが、明日の朝には、もしかしたら、別の所に出かけて行ってしまっているかも知れない、とでも思っているようだ。渡された物を受け取ると、おれはそのまま墓に出かけて行った。
家から少し歩いた所にある墓地に行くと、外灯がついていて、結構、墓地の中は明るかった。それにしても、狭い墓地だ。両隣りが小さな町工場なので、余計に狭く感じるが。
さっさとお参りを済ませて、家まで歩いて帰る道の途中でふと、今日の電車の中で見た夢の中の、延々と地の果てまで続く平らな地面の光景が、偶然にも頭の中に蘇って来た。どうして町内の墓地が狭苦しく見えたのか、分かったような気がした。
家に帰って、三人で夕食を済ませた後、おれは一人で、応接室のソファに腰掛けたまま、ぼんやりと考え事をしていた。そのうち、秋の終わりまでには自分の就職先を決めないといけない事を思い出して、急におれは憂鬱になって来た。昨日まで三週間行っていた実習先の会社の仕事も悪くはなかったが、自分が本当にやりたいと思っている事とは、何か違う気がした。
出来る事なら、大学に入り直したい。でもそんな事は、現実にはできない。だんだんおれは、どうしたらいいのか分からなくなって来た。学校に通って勉強だけしていればよかった今までの人生が、急になつかしくなったおれは、ソファから立ち上がると、階段を上って、自分が高校時代まで使っていた二階の勉強部屋に入ってみた。
部屋の中には、自分が昔使っていた机や本棚が、そのまま残っていた。おれは椅子に腰掛けると、しばらく部屋の中をぼんやりと眺めた。それから、机の引出しを一つ一つ開けては、何が中に入っているのかを確かめて見たが、入っているのは使い道の無い小物ばかりだった。
もういい。悩んでばかりいても仕方ない。下へ行って、テレビでも見てようか。そう思ったおれは、椅子から立ち上がって、部屋を出ようとして、ふと本棚を見ると、大きな封筒が本と本の間に押し込んである。何だ、これは。と思って取り出して見ると、高校の同窓会名簿だった。ああ、こんな物、今のおれには関係無い。と思って、封筒を机の上に置いたまま部屋を出ようとしたが、ふと、自分の事がどのように書いてあるのかが気になって、封を破って同窓会名簿を開いて見た。名簿の中の自分の欄には、家の住所と家の電話番号以外には、何も書いてなかった。
よかった。何も、余計な事は書いてなかった。おれは安心すると、部屋を出て階段を下り始めたが、下りる途中で、待てよ、と思い、立ち止まった。気になる事が、もう一つある。そう思ったおれは再び階段を上り、部屋の机の上に置いた名簿をもう一度開けて見た。夢の中で会った同級生の欄を急いで探してみると、住所も電話番号も、すべての欄が空欄になっていた。どうして空欄になっているのだろうか。名簿をめくって行くと、ほかにも所々に空欄になっている人がいる。よく分からない。何の事やらさっぱり。おれはあきらめて名簿を閉じた。この人たちは、どこかに引っ越してしまっていて、もう連絡がつかなくなっているのだ。やっと、おれは悟った。
おれはがっくりと来て、全身のすべての力が抜けてしまったような感じになった。
「仕事なんてもう、何でもいいんだよ。」
おれは思わず、そうつぶやいた。
2005.10.08 記事公開
夜汽車 9 夜の授業
◆ あれから時が過ぎて、おれは学校を卒業すると同時に、内定していた会社に入社した。入社した年の秋になって、おれは新しい勤務地に移る事になった。ところが、その新しい仕事場が、本社から電車とバスを乗り継いで二時間以上もかかる山の中の研究所だった。だったら、その研究所の近くで空いているアパートを見つけて引っ越せばいいのだが、やっかいな事に、週に一回は会議のために朝から本社に出勤しなければならなかった。
やむなくおれは、本社と山の中の研究所との中間の場所にあるアパートを探して、そこに引っ越す事にした。そしてアパートからは毎朝、自転車に乗って、本社に出かけて行く時は東の方にある駅へ、そして研究所に出かけて行く時は西の方にある駅まで漕いで行って、それぞれの駅前の自転車置き場に自転車を停めて置く事にした。こうして、まったく正反対の方向に遠く離れている二つの駅の自転車置き場を使う事で、かなり通勤時間を短縮できるようになったのだが、ところが、午前中は本社で会議をして、午後からは研究所に移動するといった事がよくあるのだ。そういう時は、どちらの駅に自転車を置いておけばいいのだか、おれはほとほと困り果てた。結局、そういう時は、自転車ではなくバスに乗って駅まで行く事になったのだが。
◆ そんな生活にもだんだんと慣れて来て、やがて冬が過ぎ、春が近づいて来ると、次第におれは、何とも言えない虚しさを感じるようになって行った。もともと自分は、今の会社の今の仕事が気に入って入社したわけではなかった。学校の最後の学年の時、自分に向いていそうな仕事をいろいろと探してみたが、結局、見つからなくて、やむなく今の会社に入ったのだった。ところが、このままで行くと、定年になって退職するまでずっと、この会社から抜け出せないでいそうな気がする。さて、これで本当にいいのだろうか。
そんな事をいろいろと思い巡らしていたある日、不思議な出来事に出会った。研究所では、定期的にコンピュータの保守作業をしているが、うちの会社は金曜日の夜中に徹夜でする事になっていた。ある時、おれがその作業の当番に回って来たので、その週の金曜日は徹夜の勤務のため、夕方になってから研究所に出勤した。夜の十時になると作業が始まったが、この日は珍しく順調に進んで、夜中の一時前には全ての作業が完了してしまった。うまく行かない時は、土曜日の朝までずっと仕事が続く事もあったが、この日は運がよかった。
仕事が終わるとすぐ、おれは仲間と一緒に仮眠室に駆け込んでベッドの中に入った。みんな、朝になったらすぐに起きて、めいめいの好きな所に遊びに出かけて行くのを楽しみにしていた。ところが・・・。
しばらくして、おれは目が覚めた。どこかから、ものすごく大きないびきが聞こえて来る。どうも、うちの会社の人間じゃなさそうだ。部屋の中の反対側のよその会社の社員用のベッドから、うるさい音が聞こえて来る。やれやれ、しかたがない。眠れなくなったおれは、ベッドから起き上がると部屋を出て、明かりのついた廊下を歩いて、トイレまで用を足しに行った。用が終わって、再び仮眠室に戻る途中、廊下を歩いていると、どこかから女の人の声がかすかに聞こえて来る。おかしい。こんな夜中に、研究所の中で女の人が勤務しているはずはないのだが。それに、ここは山の中で、すぐ近くには民家も無いし、第一、この建物の窓は全部、はめ殺しになっていて、外にいる人間の声はほとんど聞こえて来ないはずなのだが。
どうも変だと思って、声の聞こえて来る方に行ってみると、さっきまで作業をしていたうちの会社の電算室の、すぐ隣の部屋から聞こえて来る。しかし、そこはよその会社の所有している部屋で、勝手に出入りはできない。それに、この部屋は、今夜は誰も使っていないはずだ。自分たちが徹夜の作業を始めた時も、終わって出て行った時も、隣の部屋には人がいる気配は無かった。どうも変だと思ったおれは、思い切って、隣の部屋のドアを開けてみた。すると、
◆ 突然、目の前が真っ暗になった。そして、その直後、
「中山君、久しぶりね。さあ、席に着きなさい。」
と、女の人がおれを呼ぶ声が聞こえた。驚いたおれは、その瞬間、開けたドアの取っ手から手を離すと、部屋のドアがピシャリと閉まった。
気がつくと、部屋の中はこうこうと蛍光灯の明かりが照っていて、おれはいつの間にか、部屋の中にずらりと並んだ机の中のどこかの席に着いていた。見ると自分の周りには、ところどころに高校の時に見かけたことのある人たちが席に着いていて、知らない女の先生が黒板の前に立っていた。部屋の窓の外は真っ暗で、今が夜中である事が分かった。 え?こんな夜中に、こんな所で学校の授業なんてやってるのか?急におれは、わけが分からなくなった。それにしても、おかしい。おれはもう、何年も前に、とっくに高校を卒業したはずなのに、なんでまた、同じ高校に入り直さないといけないんだ。
呆然としているうちに、女の先生はおれの席のすぐ横を通り過ぎて、さっさと部屋から出て行ってしまった。え、もう、休み時間なのか。おれは今、ここに入って来たばかりなのだが。ところで、さっきの先生、おれが遅刻して来たとも、何とも言わなかったが。一体、どうなってるんだ。
と思っていると、周りの席の人たちは、次々とかばんの中から弁当箱を取り出して、弁当を食べ始めた。あれー、もう昼食、いや、夜食の時間なのか。ところでおれは、かばんも持って来ていないし、もちろん、弁当なんか持って来ていない。どうすればいいんだ。
しばらく、きょろきょろと周りのようすを見ていたおれは、ようやく今までの事を思い出した。どうも、さっき、この部屋に入って来た時から、何かが変だ。いったい、この部屋はどうなっているんだ。本当に、研究所の中の部屋なのか、ここは。
思わずおれは立ち上がると、部屋の後ろの、さっき自分が入って来たばかりのドアの前まで行った。おれは取っ手を回して、ドアを開けた。すると、部屋の外は真っ暗だ。おかしい。研究所の廊下は、夜の間もずっと明かりがついているはずだが。と言うことは、ここは研究所の中ではなくて、どこか別の場所になっているのか。
取っ手から手を離すと、ドアがピシャリと閉まった。そして、廊下にパッと明かりがついた。そこは、研究所の廊下だった。廊下の窓から外を見ると、丸い月が照っていた。今日って、満月なのか。窓の外は、月の光に照らされた山の中の林が広がっていた。確かにそこは、山の中の研究所だった。じゃあ、さっきのあの部屋は何だったんだ。あそこだけ、中が学校の教室のようになっていたが。
おれは急いで、さっき出て来たばかりの部屋の入り口の前まで行った。ところが、いつの間にか、ドアはロックされていて、どうやってもドアが開かない。さっきは、すんなりと開いたのに。しかたがない。あきらめたおれは、やっと仮眠室に戻った。中に入ると、いつの間にか、あのうるさかったいびき声が聞こえなくなっていた。ベッドに入ると、そのままおれは寝入った。
◆ 朝になって、目が覚めたおれは、顔を洗うと、さっさと研究所から出て行こうかと思ったが、念のため、夜中に不思議な光景に出会った、あの電算室の隣の部屋の前まで行ってみた。そうしたら、やっぱりドアはロックしてあった。確かにこの部屋は、夜の間ずっと、閉まっていたのだ。まあ、いいか。おれが夜中に寝ぼけていて、トイレに出て行った帰りに、何かを勘違いしたか、何かを錯覚したのだろう。
研究所の玄関前で、おれは駅に向かう朝のバスに乗った。こんな土曜日の朝早く、研究所を出発するなんて、初めての事だった。山の中の景色が、今まで見たこともないくらいに生き生きと感じられた。
2008.04.01 記事公開
やむなくおれは、本社と山の中の研究所との中間の場所にあるアパートを探して、そこに引っ越す事にした。そしてアパートからは毎朝、自転車に乗って、本社に出かけて行く時は東の方にある駅へ、そして研究所に出かけて行く時は西の方にある駅まで漕いで行って、それぞれの駅前の自転車置き場に自転車を停めて置く事にした。こうして、まったく正反対の方向に遠く離れている二つの駅の自転車置き場を使う事で、かなり通勤時間を短縮できるようになったのだが、ところが、午前中は本社で会議をして、午後からは研究所に移動するといった事がよくあるのだ。そういう時は、どちらの駅に自転車を置いておけばいいのだか、おれはほとほと困り果てた。結局、そういう時は、自転車ではなくバスに乗って駅まで行く事になったのだが。
◆ そんな生活にもだんだんと慣れて来て、やがて冬が過ぎ、春が近づいて来ると、次第におれは、何とも言えない虚しさを感じるようになって行った。もともと自分は、今の会社の今の仕事が気に入って入社したわけではなかった。学校の最後の学年の時、自分に向いていそうな仕事をいろいろと探してみたが、結局、見つからなくて、やむなく今の会社に入ったのだった。ところが、このままで行くと、定年になって退職するまでずっと、この会社から抜け出せないでいそうな気がする。さて、これで本当にいいのだろうか。
そんな事をいろいろと思い巡らしていたある日、不思議な出来事に出会った。研究所では、定期的にコンピュータの保守作業をしているが、うちの会社は金曜日の夜中に徹夜でする事になっていた。ある時、おれがその作業の当番に回って来たので、その週の金曜日は徹夜の勤務のため、夕方になってから研究所に出勤した。夜の十時になると作業が始まったが、この日は珍しく順調に進んで、夜中の一時前には全ての作業が完了してしまった。うまく行かない時は、土曜日の朝までずっと仕事が続く事もあったが、この日は運がよかった。
仕事が終わるとすぐ、おれは仲間と一緒に仮眠室に駆け込んでベッドの中に入った。みんな、朝になったらすぐに起きて、めいめいの好きな所に遊びに出かけて行くのを楽しみにしていた。ところが・・・。
しばらくして、おれは目が覚めた。どこかから、ものすごく大きないびきが聞こえて来る。どうも、うちの会社の人間じゃなさそうだ。部屋の中の反対側のよその会社の社員用のベッドから、うるさい音が聞こえて来る。やれやれ、しかたがない。眠れなくなったおれは、ベッドから起き上がると部屋を出て、明かりのついた廊下を歩いて、トイレまで用を足しに行った。用が終わって、再び仮眠室に戻る途中、廊下を歩いていると、どこかから女の人の声がかすかに聞こえて来る。おかしい。こんな夜中に、研究所の中で女の人が勤務しているはずはないのだが。それに、ここは山の中で、すぐ近くには民家も無いし、第一、この建物の窓は全部、はめ殺しになっていて、外にいる人間の声はほとんど聞こえて来ないはずなのだが。
どうも変だと思って、声の聞こえて来る方に行ってみると、さっきまで作業をしていたうちの会社の電算室の、すぐ隣の部屋から聞こえて来る。しかし、そこはよその会社の所有している部屋で、勝手に出入りはできない。それに、この部屋は、今夜は誰も使っていないはずだ。自分たちが徹夜の作業を始めた時も、終わって出て行った時も、隣の部屋には人がいる気配は無かった。どうも変だと思ったおれは、思い切って、隣の部屋のドアを開けてみた。すると、
◆ 突然、目の前が真っ暗になった。そして、その直後、
「中山君、久しぶりね。さあ、席に着きなさい。」
と、女の人がおれを呼ぶ声が聞こえた。驚いたおれは、その瞬間、開けたドアの取っ手から手を離すと、部屋のドアがピシャリと閉まった。
気がつくと、部屋の中はこうこうと蛍光灯の明かりが照っていて、おれはいつの間にか、部屋の中にずらりと並んだ机の中のどこかの席に着いていた。見ると自分の周りには、ところどころに高校の時に見かけたことのある人たちが席に着いていて、知らない女の先生が黒板の前に立っていた。部屋の窓の外は真っ暗で、今が夜中である事が分かった。 え?こんな夜中に、こんな所で学校の授業なんてやってるのか?急におれは、わけが分からなくなった。それにしても、おかしい。おれはもう、何年も前に、とっくに高校を卒業したはずなのに、なんでまた、同じ高校に入り直さないといけないんだ。
呆然としているうちに、女の先生はおれの席のすぐ横を通り過ぎて、さっさと部屋から出て行ってしまった。え、もう、休み時間なのか。おれは今、ここに入って来たばかりなのだが。ところで、さっきの先生、おれが遅刻して来たとも、何とも言わなかったが。一体、どうなってるんだ。
と思っていると、周りの席の人たちは、次々とかばんの中から弁当箱を取り出して、弁当を食べ始めた。あれー、もう昼食、いや、夜食の時間なのか。ところでおれは、かばんも持って来ていないし、もちろん、弁当なんか持って来ていない。どうすればいいんだ。
しばらく、きょろきょろと周りのようすを見ていたおれは、ようやく今までの事を思い出した。どうも、さっき、この部屋に入って来た時から、何かが変だ。いったい、この部屋はどうなっているんだ。本当に、研究所の中の部屋なのか、ここは。
思わずおれは立ち上がると、部屋の後ろの、さっき自分が入って来たばかりのドアの前まで行った。おれは取っ手を回して、ドアを開けた。すると、部屋の外は真っ暗だ。おかしい。研究所の廊下は、夜の間もずっと明かりがついているはずだが。と言うことは、ここは研究所の中ではなくて、どこか別の場所になっているのか。
取っ手から手を離すと、ドアがピシャリと閉まった。そして、廊下にパッと明かりがついた。そこは、研究所の廊下だった。廊下の窓から外を見ると、丸い月が照っていた。今日って、満月なのか。窓の外は、月の光に照らされた山の中の林が広がっていた。確かにそこは、山の中の研究所だった。じゃあ、さっきのあの部屋は何だったんだ。あそこだけ、中が学校の教室のようになっていたが。
おれは急いで、さっき出て来たばかりの部屋の入り口の前まで行った。ところが、いつの間にか、ドアはロックされていて、どうやってもドアが開かない。さっきは、すんなりと開いたのに。しかたがない。あきらめたおれは、やっと仮眠室に戻った。中に入ると、いつの間にか、あのうるさかったいびき声が聞こえなくなっていた。ベッドに入ると、そのままおれは寝入った。
◆ 朝になって、目が覚めたおれは、顔を洗うと、さっさと研究所から出て行こうかと思ったが、念のため、夜中に不思議な光景に出会った、あの電算室の隣の部屋の前まで行ってみた。そうしたら、やっぱりドアはロックしてあった。確かにこの部屋は、夜の間ずっと、閉まっていたのだ。まあ、いいか。おれが夜中に寝ぼけていて、トイレに出て行った帰りに、何かを勘違いしたか、何かを錯覚したのだろう。
研究所の玄関前で、おれは駅に向かう朝のバスに乗った。こんな土曜日の朝早く、研究所を出発するなんて、初めての事だった。山の中の景色が、今まで見たこともないくらいに生き生きと感じられた。
2008.04.01 記事公開
夜汽車 10 避難訓練
あの時の事があってからおれは、うちの会社の電算室のすぐ隣の部屋を注意するようになったが、あの部屋を所有している会社の人間が部屋を出入りするところは、一度も見る事が無かった。また、電算室の徹夜の作業が夜中の一時前に終わってしまうような事も、それから後には二度と無かった。あの日の夜中に見たものは、何かの錯覚だったのかも知れない。もしかしたら、おれが仮眠室の中で眠っていた時に、夢を見ていただけだったのかも。
◆ さて、それからしばらくたったある日、研究所で防災訓練があった。この日は、午前十時に避難開始の放送が全館に流れることになっていて、研究所の中にいる人間は全員、貴重品をすべて身に付けて、非常階段を下りて、研究所の玄関前の広場に集合する事になっていた。
おれはその日、急いで仕上げなければならない仕事があったので、朝からずっと電算室の中にいた。やがて十時になると、電算室の中に避難開始の放送が流れた。すぐにおれは、機械の電源を全て切って、部屋の電灯を消して、廊下に出た。すると、
おや、誰も廊下に出ていないじゃないか。おかしい。今日は、十時から防災訓練じゃなかったのか。それとも、さっき聞いた放送は、もしかして空耳だったのか。と思って、廊下の窓から外を見ると、なんとすでに、玄関前の広場には大勢の人たちが集まっている。そんな?さっき、放送があったばかりなのに、こんなに早く避難が終わるはずがない。ひょっとして、みんな、放送が始まる前から外に出ていたのか?
しょうがない。急いで避難しないと。あ、待てよ。と、そこでおれは、ふと、ある事を思いついた。今、自分以外の人間は誰もこの階にはいないはずだ。だったら、あの、気になる隣の研究室をちょっとのぞいてみたっていいじゃないか。
そう思ったおれは、そっと隣の部屋のドアの取っ手を回してみた。すると、ドアがすんなりと開いたので、おれは中をこっそりとのぞいてみた。部屋の中にはずらりと机が並んでいて、学校の教室のようになっていた。驚いたおれは、そっと、部屋の中に入って行った。中にあるのは、机と椅子だけで、机の上にも、机の中にも、床の上にも、ほかには何も無かった。おれは、あの夜中のでき事を思い出した。
そうだった。ここでは、夜中に、学校の授業をしていたのだった。だから、昼間は誰もいないので、こんなふうにがらんとしているのだ。部屋の中は、電灯はついていなかったが、窓から明るい光が差し込んでいた。
ここの外は、どうなっているのだろうか。おれは、部屋の窓から建物の外をのぞいてみた。すると、外の広場にはたくさんの人たちが、きちんと整列をしていて、誰かが広場の前の朝礼台のような所に立っているのが見えた。おれは、はっとした。
そうだった。今、避難訓練の真っ最中だったのだ。みんな、もう、広場に集合していて、人数を点呼しているところだ。急がないと。
◆ あわてたおれは、部屋を飛び出すと、非常階段を駆け下りて、玄関前の広場に走って行った。ところが、うちの会社の人間が、いったい、どこの列に並んでいるのだか、どれだけ捜しても見つからない。仕方なくおれは、一番左端の列の一番後ろに並んで、周りのようすを見ていたが、どうも何だか、何かがおかしい。自分の周りにいるのは、見かけたことのない人たちばかりで、研究所で毎日見かける人が、どこにもいない。
と思って、しばらくたってから、周りの人たちがみな、運動をする時のような身なりをしている事に、やっとおれは気がついた。ひょっとして、避難訓練のために、わざわざみんな、あんな服装をして来ているのだろうか。避難訓練って、広場に集まったらそれで終わりだと思っていたが、そうじゃなかったのか。この後、何があるんだろうか。と思って見ていると、向こう側の一番右端の列から、どこかに移動が始まった。ひょっとして、これから山を下りるのか?避難訓練でそこまですると言う話は、聞いていなかったが。と思ってようすを見ていたおれは、その時、はっとした。今、移動を始めた列の中に、高校の時に見たことのある人が、いたような気がする。ここの研究所にいつも、通っている人なのだろうか。今まで、ずっと気づかなかったが。
とうとう、最後の列が移動する番になったので、おれは列の後ろにくっついて、みんなの後について行った。広場には、誰も残っていなかった。歩き始めたおれは、バスの通る道路を歩いて、山を下りて行くのかと思ったが、そうじゃなくて、途中から、林の中にみんなが入って行ってしまうので、驚いた。おいおい。こんな所に、道なんかあるのか。いったい、みんな、どこに行くんだ。
林の中に入ったとたん、自分の列を見失ってしまったおれは、仕方なく、ひとり、坂道を引き返して、研究所の広場に戻って行った。すると、広場の端の方には、消防署から来た車が何台か停まっていて、消防署の人たちが、訓練を終えて後片づけをしているところだった。
研究所の建物を見上げると、どの部屋にも、窓から明かりが見えて、訓練を終えて部屋に戻った人たちが、自分の仕事を始めているのが分かった。いつの間にみんな、ここに戻って来ていたんだ。何だかよく、分からない。何者かに、ばかされたような気分のまま、おれは玄関を入ると、エレベーターに乗って、自分の会社の部屋に行った。部屋に戻ってみると、みんな、おれが遅れて戻って来たことなど気にせずに、めいめいの仕事をしていた。
自分の机に戻ったおれは、しばらくぼーっとしていたが、だいぶたってからやっと、誰も、さっき広場で見たような運動をする時の服装をしているやつはいない事に気がついた。自分がさっき、あそこで見ていたのは何だったんだ。そう言えば、はじめ自分が、広場に入った時には、消防署の車は来てなかったような。おれが、あの後、林の中で道に迷って広場に戻って来た時、はじめて消防署の人たちが来ているのを見たのだ。どうも、何がどうなっているのだか、よく分からない。
何かおかしい。そうだ。まず、あの、うちの電算室のすぐ隣のあの部屋がおかしい。さっき、こっそり中に入って見たら、学校の教室の机がずらりと並んでいた。もう一度、確かめに行ってみたいところだが、よその会社の部屋を勝手にのぞくわけにはいかないし。しかし、気になる。
◆ その日の帰りの電車の中で、おれはぼんやりと考えた。もしかして今日は、あそこの夜の学校も、午前中は、防災訓練をやっていたのだろうか。おれが広場で見たのは、それだったのかも知れない。だからみんな、学校の体育の授業の時のような服装をしていたのだ。
2008.04.08 記事公開
◆ さて、それからしばらくたったある日、研究所で防災訓練があった。この日は、午前十時に避難開始の放送が全館に流れることになっていて、研究所の中にいる人間は全員、貴重品をすべて身に付けて、非常階段を下りて、研究所の玄関前の広場に集合する事になっていた。
おれはその日、急いで仕上げなければならない仕事があったので、朝からずっと電算室の中にいた。やがて十時になると、電算室の中に避難開始の放送が流れた。すぐにおれは、機械の電源を全て切って、部屋の電灯を消して、廊下に出た。すると、
おや、誰も廊下に出ていないじゃないか。おかしい。今日は、十時から防災訓練じゃなかったのか。それとも、さっき聞いた放送は、もしかして空耳だったのか。と思って、廊下の窓から外を見ると、なんとすでに、玄関前の広場には大勢の人たちが集まっている。そんな?さっき、放送があったばかりなのに、こんなに早く避難が終わるはずがない。ひょっとして、みんな、放送が始まる前から外に出ていたのか?
しょうがない。急いで避難しないと。あ、待てよ。と、そこでおれは、ふと、ある事を思いついた。今、自分以外の人間は誰もこの階にはいないはずだ。だったら、あの、気になる隣の研究室をちょっとのぞいてみたっていいじゃないか。
そう思ったおれは、そっと隣の部屋のドアの取っ手を回してみた。すると、ドアがすんなりと開いたので、おれは中をこっそりとのぞいてみた。部屋の中にはずらりと机が並んでいて、学校の教室のようになっていた。驚いたおれは、そっと、部屋の中に入って行った。中にあるのは、机と椅子だけで、机の上にも、机の中にも、床の上にも、ほかには何も無かった。おれは、あの夜中のでき事を思い出した。
そうだった。ここでは、夜中に、学校の授業をしていたのだった。だから、昼間は誰もいないので、こんなふうにがらんとしているのだ。部屋の中は、電灯はついていなかったが、窓から明るい光が差し込んでいた。
ここの外は、どうなっているのだろうか。おれは、部屋の窓から建物の外をのぞいてみた。すると、外の広場にはたくさんの人たちが、きちんと整列をしていて、誰かが広場の前の朝礼台のような所に立っているのが見えた。おれは、はっとした。
そうだった。今、避難訓練の真っ最中だったのだ。みんな、もう、広場に集合していて、人数を点呼しているところだ。急がないと。
◆ あわてたおれは、部屋を飛び出すと、非常階段を駆け下りて、玄関前の広場に走って行った。ところが、うちの会社の人間が、いったい、どこの列に並んでいるのだか、どれだけ捜しても見つからない。仕方なくおれは、一番左端の列の一番後ろに並んで、周りのようすを見ていたが、どうも何だか、何かがおかしい。自分の周りにいるのは、見かけたことのない人たちばかりで、研究所で毎日見かける人が、どこにもいない。
と思って、しばらくたってから、周りの人たちがみな、運動をする時のような身なりをしている事に、やっとおれは気がついた。ひょっとして、避難訓練のために、わざわざみんな、あんな服装をして来ているのだろうか。避難訓練って、広場に集まったらそれで終わりだと思っていたが、そうじゃなかったのか。この後、何があるんだろうか。と思って見ていると、向こう側の一番右端の列から、どこかに移動が始まった。ひょっとして、これから山を下りるのか?避難訓練でそこまですると言う話は、聞いていなかったが。と思ってようすを見ていたおれは、その時、はっとした。今、移動を始めた列の中に、高校の時に見たことのある人が、いたような気がする。ここの研究所にいつも、通っている人なのだろうか。今まで、ずっと気づかなかったが。
とうとう、最後の列が移動する番になったので、おれは列の後ろにくっついて、みんなの後について行った。広場には、誰も残っていなかった。歩き始めたおれは、バスの通る道路を歩いて、山を下りて行くのかと思ったが、そうじゃなくて、途中から、林の中にみんなが入って行ってしまうので、驚いた。おいおい。こんな所に、道なんかあるのか。いったい、みんな、どこに行くんだ。
林の中に入ったとたん、自分の列を見失ってしまったおれは、仕方なく、ひとり、坂道を引き返して、研究所の広場に戻って行った。すると、広場の端の方には、消防署から来た車が何台か停まっていて、消防署の人たちが、訓練を終えて後片づけをしているところだった。
研究所の建物を見上げると、どの部屋にも、窓から明かりが見えて、訓練を終えて部屋に戻った人たちが、自分の仕事を始めているのが分かった。いつの間にみんな、ここに戻って来ていたんだ。何だかよく、分からない。何者かに、ばかされたような気分のまま、おれは玄関を入ると、エレベーターに乗って、自分の会社の部屋に行った。部屋に戻ってみると、みんな、おれが遅れて戻って来たことなど気にせずに、めいめいの仕事をしていた。
自分の机に戻ったおれは、しばらくぼーっとしていたが、だいぶたってからやっと、誰も、さっき広場で見たような運動をする時の服装をしているやつはいない事に気がついた。自分がさっき、あそこで見ていたのは何だったんだ。そう言えば、はじめ自分が、広場に入った時には、消防署の車は来てなかったような。おれが、あの後、林の中で道に迷って広場に戻って来た時、はじめて消防署の人たちが来ているのを見たのだ。どうも、何がどうなっているのだか、よく分からない。
何かおかしい。そうだ。まず、あの、うちの電算室のすぐ隣のあの部屋がおかしい。さっき、こっそり中に入って見たら、学校の教室の机がずらりと並んでいた。もう一度、確かめに行ってみたいところだが、よその会社の部屋を勝手にのぞくわけにはいかないし。しかし、気になる。
◆ その日の帰りの電車の中で、おれはぼんやりと考えた。もしかして今日は、あそこの夜の学校も、午前中は、防災訓練をやっていたのだろうか。おれが広場で見たのは、それだったのかも知れない。だからみんな、学校の体育の授業の時のような服装をしていたのだ。
2008.04.08 記事公開
夜汽車 11 卒業おめでとう
そんなでき事があった後で、電算室の隣の部屋は、今はどこの会社も使っていなくて、長い間空き部屋になっていると言う話をはじめて聞いた。あの部屋の入り口はロックされていて、誰も中に入る事はできないらしい。しかし、おれはあの部屋の中に入れたんだが。
◆ それからまた、秋が過ぎ、冬が過ぎ、再び春を迎えるようになった。そして、おれの短かったサラリーマン生活が、あと一か月ほどで終わる時となった。今まで、ずっと考え続けていたのだが、やっぱり会社の仕事には馴染めなかったおれは、会社を辞めて、大学に入る事にしたのだ。今まで、わずか二年間の社会人としての生活だった。
いよいよ、山の中の研究所に通う日も残り少なくなって来ると、おれはだんだんと焦り始めた。もう一度、電算室の隣のあの部屋の中に入ってみたい。そして今度は、そこに行けば会えるはずの自分の学校時代の同級生とじっくりと話をしてみたい。だがもう、そんな機会はやって来なかった。
とうとう、研究所に通う最後の週の金曜日になった。その日は、夜勤の当番になっている一部の社員を除いて、ほとんどの人たちは、週末を楽しく過ごすために、六時の終業時刻になるとすぐ、タイムカードを押して研究所から飛び出して行ったが、おれは、自分が担当していた仕事の引継ぎの資料を仕上げるために、仕事場に残っていた。そのうち、残業していたほかの人たちも皆、いなくなってしまっていて、帰りのバスの本数が残り少なくなった事に気がついたおれは、たまたま、その日の夜勤の人数が少なくて、仮眠室ががら空きである事を知ると、その日の夜は仮眠室で寝て、土曜日の朝、家に帰る事に決めた。
地下一階の食堂の前の自動販売機で買って来た夜食を食べ終わると、おれは仮眠室に行ってみた。すると、中は本当にがら空きで、誰もベッドに入って寝ている者はいなかった。おれは、部屋の一番奥のベッドに入ると、そのままぐっすりと寝入った。
◆ 夜勤を終えて仮眠室に入って来た社員たちの物音でやっと目が覚めた時には、朝の七時をとっくに過ぎて八時近くになっていた。なんとそれまで、誰も仮眠室には入って来なかったのだ。それにしても、こんな長い間ずっと、徹夜で作業を続けていたとは、今週の当番は、本当に運の悪い人たちだった。
おれはベッドから起き上がると、仮眠室を出た。徹夜の仕事でへとへとに疲れ切った人たちは、いびきをかいて眠っていて、朝の八時過ぎだと言うのに、廊下には人の姿が全く無かった。こんなに土曜日の朝は、人の気配が無いものなのだろうか。
バスに乗ってさっさとこの建物に別れを告げるつもりでいたおれは、廊下を歩いているうちにふと、思い出した。そうだった。最後に、あの部屋に行ってみなくては。心臓の鼓動が高鳴った。おれは、電算室の隣の部屋のドアの前に立つと、震える手でドアの取っ手を回した。すると、入り口のドアが静かに開き、目の前には、誰もいない、机と椅子だけがきちんと並んだ部屋が、窓から射し込む朝の光に照らされていた。
誰も、いないのか。おれは、がっくりと来た。そうだった。ここの教室は、夜の時間しか授業をやっていないのだった。だから、朝になると、生徒たちは皆、帰ってしまっていて、部屋には誰も残っていないのだ。
がっかりして、ため息をつきながら部屋の中に入ったおれは、その時、部屋の奥の大きな黒板いっぱいに書かれた
◇◇ 卒業おめでとう! ◇◇
と言う言葉に初めて気がついた。おれは、はっとした。この言葉は、今の自分に対して言っているのだ。おれはそう感じた。二年間の会社勤めの生活をやっと今月で卒業する事になった。それで、「おめでとう!」と、このおれに向かって言っているのだ。
しみじみと、書かれた言葉を感じながら、おれは、空っぽになっている教室の中を見渡した。そして、部屋の窓から外を見たおれは、おやっと思った。制服を着たどこかの学校の生徒たちが、玄関前の広場を通って、この建物のすぐ隣にある講堂に入って行くところだった。きょうは、この研究所で何かの行事でもあるのだろうか?と、しばらくよく分からないでいたおれは、そのうちだんだんと勘づいて来た。
卒業おめでとう・・・って、もしかして今日が、ここの夜の学校の卒業式なのだろうか。そう言えば、今日のこの部屋の中は、椅子と机がずいぶんときちんと並んでいる。ひょっとして、この部屋でやっていた夜の授業は、もう、終わってしまったのだろうか。いや、こうしてはいられない。急がなくては。
おれは部屋を飛び出すと、誰も人がいない研究所の廊下を走って行って、エレベーターの前まで来た。ところが、エレベーターのランプがどれもついていない。そうだったか。この時間はまだ、研究所のエレベーターは動いていないのだ。おれは急いで階段を駆け下り、研究所の玄関を飛び出すと、広場を走って横切って、講堂に向かった。その時、
「あれっ、中山君じゃないの。どうして、こんな所にいるのっ?」
と、おれを呼ぶ声が聞こえた。誰かと思って、びっくりして振り返ると、なんと、高校の時の制服を着た同級生の本山美香だった。やっぱり、今日が高校の卒業式だったのか。え、どうして?
と、おれはその時、突然、わけが分からなくなった。おれは、もう何年も前に高校を卒業したはずなのに、なんで今日、高校の卒業式に出ようとしているんだ?と思っていると、本山美香がおれのところに走って来た。そして、
「中山君、卒業式なんかに出て来ていいの?」
と、心配そうな目でおれを見つめた。え?どうして?どう言うことなんだ。と、何の事を言っているのだかよく分からないでいたおれは、やっと、ようやく、昔の事を思い出した。そうだった。おれは、高校の卒業式の前日に、突然、高熱を出して、卒業式をやっている時は、病院に入院していたのだった。だから、おれはこの卒業式に出て来てはいけないのだ。そう言いたかったのか。と、同級生の言っている事の意味がやっと分かったような気がして来ると、
「あっ、もう時間が無いわ。じゃ、中山君。さようなら。私の分までがんばって来てね。」
と言い残して、同級生は急いで講堂の中に入って行った。
あ、ちょ、ちょっと待ってくれ。と、おれはあわてて後を追ったが、講堂の入り口の両側に立っていた夜の学校の先生たちに止められてしまった。そうか。おれが、学校の制服を着ていないから、卒業式の会場には入れないのか。しかたがない。おれはあきらめた。しばらくして、外に立っていた先生たちが講堂の中に入ると、入り口が閉められた。
これでもう、あの人たちとは、永遠に会う事ができなくなってしまったのだ。その時、初めておれは、そう悟った。やがて、講堂の中から、「仰げば尊し」の歌声が聞こえて来た。そして、それが終わると、それから後は何も、中からは聞こえて来なくなって、まるで、講堂の中には、誰も人がいないのではないか、と思えるくらいになった。
しばらくして、山道を登って来た朝のバスが、研究所の玄関前に到着して、土曜日の休日出勤をする人たちが、パラパラとバスから降りて来た。これでもう、あの人たちとはお別れなのだ。おれは、思いを噛み締めながら最後のバスに乗った。さようなら・・・。やがてバスは、研究所を後にして、駅に向かって走り始めた。
2008.04.11 記事公開
◆ それからまた、秋が過ぎ、冬が過ぎ、再び春を迎えるようになった。そして、おれの短かったサラリーマン生活が、あと一か月ほどで終わる時となった。今まで、ずっと考え続けていたのだが、やっぱり会社の仕事には馴染めなかったおれは、会社を辞めて、大学に入る事にしたのだ。今まで、わずか二年間の社会人としての生活だった。
いよいよ、山の中の研究所に通う日も残り少なくなって来ると、おれはだんだんと焦り始めた。もう一度、電算室の隣のあの部屋の中に入ってみたい。そして今度は、そこに行けば会えるはずの自分の学校時代の同級生とじっくりと話をしてみたい。だがもう、そんな機会はやって来なかった。
とうとう、研究所に通う最後の週の金曜日になった。その日は、夜勤の当番になっている一部の社員を除いて、ほとんどの人たちは、週末を楽しく過ごすために、六時の終業時刻になるとすぐ、タイムカードを押して研究所から飛び出して行ったが、おれは、自分が担当していた仕事の引継ぎの資料を仕上げるために、仕事場に残っていた。そのうち、残業していたほかの人たちも皆、いなくなってしまっていて、帰りのバスの本数が残り少なくなった事に気がついたおれは、たまたま、その日の夜勤の人数が少なくて、仮眠室ががら空きである事を知ると、その日の夜は仮眠室で寝て、土曜日の朝、家に帰る事に決めた。
地下一階の食堂の前の自動販売機で買って来た夜食を食べ終わると、おれは仮眠室に行ってみた。すると、中は本当にがら空きで、誰もベッドに入って寝ている者はいなかった。おれは、部屋の一番奥のベッドに入ると、そのままぐっすりと寝入った。
◆ 夜勤を終えて仮眠室に入って来た社員たちの物音でやっと目が覚めた時には、朝の七時をとっくに過ぎて八時近くになっていた。なんとそれまで、誰も仮眠室には入って来なかったのだ。それにしても、こんな長い間ずっと、徹夜で作業を続けていたとは、今週の当番は、本当に運の悪い人たちだった。
おれはベッドから起き上がると、仮眠室を出た。徹夜の仕事でへとへとに疲れ切った人たちは、いびきをかいて眠っていて、朝の八時過ぎだと言うのに、廊下には人の姿が全く無かった。こんなに土曜日の朝は、人の気配が無いものなのだろうか。
バスに乗ってさっさとこの建物に別れを告げるつもりでいたおれは、廊下を歩いているうちにふと、思い出した。そうだった。最後に、あの部屋に行ってみなくては。心臓の鼓動が高鳴った。おれは、電算室の隣の部屋のドアの前に立つと、震える手でドアの取っ手を回した。すると、入り口のドアが静かに開き、目の前には、誰もいない、机と椅子だけがきちんと並んだ部屋が、窓から射し込む朝の光に照らされていた。
誰も、いないのか。おれは、がっくりと来た。そうだった。ここの教室は、夜の時間しか授業をやっていないのだった。だから、朝になると、生徒たちは皆、帰ってしまっていて、部屋には誰も残っていないのだ。
がっかりして、ため息をつきながら部屋の中に入ったおれは、その時、部屋の奥の大きな黒板いっぱいに書かれた
◇◇ 卒業おめでとう! ◇◇
と言う言葉に初めて気がついた。おれは、はっとした。この言葉は、今の自分に対して言っているのだ。おれはそう感じた。二年間の会社勤めの生活をやっと今月で卒業する事になった。それで、「おめでとう!」と、このおれに向かって言っているのだ。
しみじみと、書かれた言葉を感じながら、おれは、空っぽになっている教室の中を見渡した。そして、部屋の窓から外を見たおれは、おやっと思った。制服を着たどこかの学校の生徒たちが、玄関前の広場を通って、この建物のすぐ隣にある講堂に入って行くところだった。きょうは、この研究所で何かの行事でもあるのだろうか?と、しばらくよく分からないでいたおれは、そのうちだんだんと勘づいて来た。
卒業おめでとう・・・って、もしかして今日が、ここの夜の学校の卒業式なのだろうか。そう言えば、今日のこの部屋の中は、椅子と机がずいぶんときちんと並んでいる。ひょっとして、この部屋でやっていた夜の授業は、もう、終わってしまったのだろうか。いや、こうしてはいられない。急がなくては。
おれは部屋を飛び出すと、誰も人がいない研究所の廊下を走って行って、エレベーターの前まで来た。ところが、エレベーターのランプがどれもついていない。そうだったか。この時間はまだ、研究所のエレベーターは動いていないのだ。おれは急いで階段を駆け下り、研究所の玄関を飛び出すと、広場を走って横切って、講堂に向かった。その時、
「あれっ、中山君じゃないの。どうして、こんな所にいるのっ?」
と、おれを呼ぶ声が聞こえた。誰かと思って、びっくりして振り返ると、なんと、高校の時の制服を着た同級生の本山美香だった。やっぱり、今日が高校の卒業式だったのか。え、どうして?
と、おれはその時、突然、わけが分からなくなった。おれは、もう何年も前に高校を卒業したはずなのに、なんで今日、高校の卒業式に出ようとしているんだ?と思っていると、本山美香がおれのところに走って来た。そして、
「中山君、卒業式なんかに出て来ていいの?」
と、心配そうな目でおれを見つめた。え?どうして?どう言うことなんだ。と、何の事を言っているのだかよく分からないでいたおれは、やっと、ようやく、昔の事を思い出した。そうだった。おれは、高校の卒業式の前日に、突然、高熱を出して、卒業式をやっている時は、病院に入院していたのだった。だから、おれはこの卒業式に出て来てはいけないのだ。そう言いたかったのか。と、同級生の言っている事の意味がやっと分かったような気がして来ると、
「あっ、もう時間が無いわ。じゃ、中山君。さようなら。私の分までがんばって来てね。」
と言い残して、同級生は急いで講堂の中に入って行った。
あ、ちょ、ちょっと待ってくれ。と、おれはあわてて後を追ったが、講堂の入り口の両側に立っていた夜の学校の先生たちに止められてしまった。そうか。おれが、学校の制服を着ていないから、卒業式の会場には入れないのか。しかたがない。おれはあきらめた。しばらくして、外に立っていた先生たちが講堂の中に入ると、入り口が閉められた。
これでもう、あの人たちとは、永遠に会う事ができなくなってしまったのだ。その時、初めておれは、そう悟った。やがて、講堂の中から、「仰げば尊し」の歌声が聞こえて来た。そして、それが終わると、それから後は何も、中からは聞こえて来なくなって、まるで、講堂の中には、誰も人がいないのではないか、と思えるくらいになった。
しばらくして、山道を登って来た朝のバスが、研究所の玄関前に到着して、土曜日の休日出勤をする人たちが、パラパラとバスから降りて来た。これでもう、あの人たちとはお別れなのだ。おれは、思いを噛み締めながら最後のバスに乗った。さようなら・・・。やがてバスは、研究所を後にして、駅に向かって走り始めた。
2008.04.11 記事公開
夜汽車 12 春の思い出
最後の勤務が、これで終わってしまった。あしたからは、残っている有給休暇をすべて使い切って、それから、退職の手続きをするために本社に出て行く事になる。そして、それが終わると、アパートの荷物をまとめて、故郷の実家に帰って行くことになるのだ。
いったん社会人になった人間が、また学生に戻るのだから、もう親の援助を頼るわけには行かない。なるべく経費がかからないようにするため、実家から通える学校をおれは選んだ。
そんなわけで、これで乗るのが最後となった電車の中から、移り行く窓の外の景色をぼんやりと眺めていた時、ふとおれは、専門学校に通っていた最後の夏、企業での実習を終えた後のお盆の里帰りの電車の中で見た、あの長い夢を思い出した。そう言えば、あの時見た夢の中で、同級生だったあの子は、大学をその時、休んでいるような事を言っていた。もしかして、大学で勉強する事に、意味を感じなくなってしまったのだろうか。まさか、大学に通うのがいやになったわけじゃないだろうな。なんとなくおれは、自分の選んだ道に不安を感じた。
◆ やがて、最後の有給休暇が終わると、おれは退職の手続きのために、久しぶりに本社に出かけた。そこですべての手続きを終えると、二年間通った会社に最後の別れを告げ、その後、あちこちを回って引越しのための準備を済ますと、アパートに戻った。しばらくして、頼んでおいた引越しのトラックがアパートに着いた。全部の荷物を積み上げてから、トラックの助手席に乗ったおれは、そのまま故郷へと向かった。
実は、おれはその時、まるで生きている気分ではなかった。それは、受験した大学に自分が合格しているのかどうか、まだ分かっていなかったからだ。合格していたら会社を辞めて、合格していなかったら、そのまま会社を続けて、何事もなかったかのようにしているのが賢い生き方なのだろうが、それでは、年度末に突然、予告無しに会社を辞めて、職場の仲間たちに大変な迷惑をかける事になってしまう。おれには、そんな事はできなかった。それで、合格できるのかどうか、まったく予測がつかない時点で、会社に退職を申し出たのだ。もし、合格していなかったら、来月からどうするのか。そんな事は、何も考えてはいなかった。やり残した会社の仕事を片づける事だけで、毎日がてんやわんやだったのだ。それに、この一年間は、会社の仕事が終わって、夜、アパートに帰って来てから、毎日、高校で勉強した事を復習していた。
実家に帰り着いて、久しぶりに会った両親は、以前と比べて年をとって、疲れているように見えた。
◆ 家に帰った次の日は、大学の合格発表の日だった。発表の時間に間に合うように、おれはバスに乗って大学へ向かった。大学の門を入ると、中では早々と、合格が決まった新入生に先輩の学生たちが、部活やらサークル会やらの勧誘をしていた。そして、喜んでいる人たちや沈んでいる人たちが、ぽつりぽつりと帰って行った。おれは急いで、番号が張り出してある大きな掲示板の前まで行った。すると、意外な事に、自分の番号があった。おれは驚いた。たぶん、受からないんじゃないのか、とずっと思っていたから。どうして受かったのか、よく分からなかった。自分はそんなに、努力をしたのだろうか。どうもこれは、自分の努力のせいじゃない。と、何となく感じながら、おれは掲示板を後にして、帰る事にした。
と、その時、少し離れた所から、自分の方を見ている人と、ばったりと目が合った。目が合うと同時に、その人はにっこりと笑うと、すぐ、どこかに走り去って行ってしまった。
あれっ、今の人。ひょっとして、高校の時の同級生だった、あの子じゃなかったか。え、どうして。あの子は確か、こんな田舎の大学なんかじゃなくて、ずっと都会の大学に入学して、そして今頃はもう、卒業しているはずなのでは。あ、待てよ。そうか。そうだった。あの子は、確か、大学を休学していたのだ。ひょっとして、はじめに入った大学を途中でやめて、その後、ここの大学に入り直したのだろうか。まさか。学校が春休みで、たまたま、故郷に帰って来ていただけだったのかも。いや、そもそも、あの子が大学を休学していたと言うのは、おれが見た夢の中での話でしかないし。
確かにさっき目が合った子は、同級生だった子に違いない。自分の知らない人だったら、にっこり笑ったりなんかしないから。でも、どうしてあんなところにいたのだろうか。 とりとめも無く、さっきの事を振り返りながら、おれは帰りのバスの中で揺られていた。やっぱり、あの子は、はじめ入った大学をやめて、あそこの大学に入り直していたのだろうか。それで、サークル会か何かの勧誘のために、きょうの合格発表の会場に来ていたのだ。そしてそこで、ばったりとおれと出会ってしまったので、たぶん、恥ずかしくなって、どこかへ走って逃げて行ってしまったのだろう。もしかして、今から二年半前の、あの夏の里帰りの電車の中で見た夢の中で、今、大学を休んでいると、あの子が話していたのは、あの大学に入り直すために、どこかの予備校にでも通っていたのかも知れない。だんだん、そんな気がして来た。
本当にあの子が、自分がきょう合格した大学に通っているのか、今すぐにでも確かめたい。そんな思いが、だんだんと強くなって行った。そして、思いついた。 そうだった。去年、届いていたはずの同窓会名簿をまだ見ていなかった。二年半前の夏に見た時は、あの子は家を引っ越した後で、連絡先が不明になっていたから、その後は二度と、開いてみた事も無かったが、ひょっとして、新しい名簿には、今通っているはずの大学の名前が載っているかも。
◆ やっと停留所にバスが停まると、おれはバスを駆け降りて、家まで飛ぶように走って行った。そして、家に着くと、階段を駆け上がって、高校生だった頃の自分の勉強部屋の本棚から、まだ封を開けていない、去年届いていた名簿を取り出して、急いで封を破って中を開いた。
もしかしたら、連絡先は、やっぱり空白のままになっているのだろうか。そんな不安を感じながら、同級生の欄を捜した。そうしたら、なんと、空白にはなっていなかった。その子の連絡先には「死去」と載っていた。
まさか。信じられない。さっき、大学の中で会って来たばかりなのに。いったい、どうなっているんだ。おれは驚いた。何がどうなったのか、わけが分からなくて、しばらくの間、呆然としていた。
そして、だいぶたってから、やっと、分かって来た。あの二年半前の夏の里帰りの途中の電車の中で見た長い夢、あの夢を見ていた時が、ちょうど、あの子がこの世を去る時だったのだ。なんと言うことだ。あれからもう、二年半以上も時がたってしまっていると言うのに、今ごろになってやっとそんな事に気がつくとは。本当におれは、だめな人間だ。こんな、人間にとって大切な事に、どうしてあの時、すぐに気づかなかったのだろうか。
もう遅い。もしかしたら、自分は二年半もの間、時を無駄に過ごして来てしまったのかも知れない。おれは苦笑した。本当に自分の生き方は、これでよかったのだろうか。まあ、故郷に帰って来て、自分の親と一緒に暮らす事になったのだから、間違った生き方をしているわけではないとは思うが。それに、過ぎ去ってしまった時は、もう、取り戻す事はできない。
おれは、二階の部屋の窓のカーテンを開けて、自分の家の周りの町の中の景色を眺めた。そして、いつの間にか、あの山の中の研究所の最後の朝に出会った、あの夜の学校の卒業式の事を思い返していた。
終わり
いったん社会人になった人間が、また学生に戻るのだから、もう親の援助を頼るわけには行かない。なるべく経費がかからないようにするため、実家から通える学校をおれは選んだ。
そんなわけで、これで乗るのが最後となった電車の中から、移り行く窓の外の景色をぼんやりと眺めていた時、ふとおれは、専門学校に通っていた最後の夏、企業での実習を終えた後のお盆の里帰りの電車の中で見た、あの長い夢を思い出した。そう言えば、あの時見た夢の中で、同級生だったあの子は、大学をその時、休んでいるような事を言っていた。もしかして、大学で勉強する事に、意味を感じなくなってしまったのだろうか。まさか、大学に通うのがいやになったわけじゃないだろうな。なんとなくおれは、自分の選んだ道に不安を感じた。
◆ やがて、最後の有給休暇が終わると、おれは退職の手続きのために、久しぶりに本社に出かけた。そこですべての手続きを終えると、二年間通った会社に最後の別れを告げ、その後、あちこちを回って引越しのための準備を済ますと、アパートに戻った。しばらくして、頼んでおいた引越しのトラックがアパートに着いた。全部の荷物を積み上げてから、トラックの助手席に乗ったおれは、そのまま故郷へと向かった。
実は、おれはその時、まるで生きている気分ではなかった。それは、受験した大学に自分が合格しているのかどうか、まだ分かっていなかったからだ。合格していたら会社を辞めて、合格していなかったら、そのまま会社を続けて、何事もなかったかのようにしているのが賢い生き方なのだろうが、それでは、年度末に突然、予告無しに会社を辞めて、職場の仲間たちに大変な迷惑をかける事になってしまう。おれには、そんな事はできなかった。それで、合格できるのかどうか、まったく予測がつかない時点で、会社に退職を申し出たのだ。もし、合格していなかったら、来月からどうするのか。そんな事は、何も考えてはいなかった。やり残した会社の仕事を片づける事だけで、毎日がてんやわんやだったのだ。それに、この一年間は、会社の仕事が終わって、夜、アパートに帰って来てから、毎日、高校で勉強した事を復習していた。
実家に帰り着いて、久しぶりに会った両親は、以前と比べて年をとって、疲れているように見えた。
◆ 家に帰った次の日は、大学の合格発表の日だった。発表の時間に間に合うように、おれはバスに乗って大学へ向かった。大学の門を入ると、中では早々と、合格が決まった新入生に先輩の学生たちが、部活やらサークル会やらの勧誘をしていた。そして、喜んでいる人たちや沈んでいる人たちが、ぽつりぽつりと帰って行った。おれは急いで、番号が張り出してある大きな掲示板の前まで行った。すると、意外な事に、自分の番号があった。おれは驚いた。たぶん、受からないんじゃないのか、とずっと思っていたから。どうして受かったのか、よく分からなかった。自分はそんなに、努力をしたのだろうか。どうもこれは、自分の努力のせいじゃない。と、何となく感じながら、おれは掲示板を後にして、帰る事にした。
と、その時、少し離れた所から、自分の方を見ている人と、ばったりと目が合った。目が合うと同時に、その人はにっこりと笑うと、すぐ、どこかに走り去って行ってしまった。
あれっ、今の人。ひょっとして、高校の時の同級生だった、あの子じゃなかったか。え、どうして。あの子は確か、こんな田舎の大学なんかじゃなくて、ずっと都会の大学に入学して、そして今頃はもう、卒業しているはずなのでは。あ、待てよ。そうか。そうだった。あの子は、確か、大学を休学していたのだ。ひょっとして、はじめに入った大学を途中でやめて、その後、ここの大学に入り直したのだろうか。まさか。学校が春休みで、たまたま、故郷に帰って来ていただけだったのかも。いや、そもそも、あの子が大学を休学していたと言うのは、おれが見た夢の中での話でしかないし。
確かにさっき目が合った子は、同級生だった子に違いない。自分の知らない人だったら、にっこり笑ったりなんかしないから。でも、どうしてあんなところにいたのだろうか。 とりとめも無く、さっきの事を振り返りながら、おれは帰りのバスの中で揺られていた。やっぱり、あの子は、はじめ入った大学をやめて、あそこの大学に入り直していたのだろうか。それで、サークル会か何かの勧誘のために、きょうの合格発表の会場に来ていたのだ。そしてそこで、ばったりとおれと出会ってしまったので、たぶん、恥ずかしくなって、どこかへ走って逃げて行ってしまったのだろう。もしかして、今から二年半前の、あの夏の里帰りの電車の中で見た夢の中で、今、大学を休んでいると、あの子が話していたのは、あの大学に入り直すために、どこかの予備校にでも通っていたのかも知れない。だんだん、そんな気がして来た。
本当にあの子が、自分がきょう合格した大学に通っているのか、今すぐにでも確かめたい。そんな思いが、だんだんと強くなって行った。そして、思いついた。 そうだった。去年、届いていたはずの同窓会名簿をまだ見ていなかった。二年半前の夏に見た時は、あの子は家を引っ越した後で、連絡先が不明になっていたから、その後は二度と、開いてみた事も無かったが、ひょっとして、新しい名簿には、今通っているはずの大学の名前が載っているかも。
◆ やっと停留所にバスが停まると、おれはバスを駆け降りて、家まで飛ぶように走って行った。そして、家に着くと、階段を駆け上がって、高校生だった頃の自分の勉強部屋の本棚から、まだ封を開けていない、去年届いていた名簿を取り出して、急いで封を破って中を開いた。
もしかしたら、連絡先は、やっぱり空白のままになっているのだろうか。そんな不安を感じながら、同級生の欄を捜した。そうしたら、なんと、空白にはなっていなかった。その子の連絡先には「死去」と載っていた。
まさか。信じられない。さっき、大学の中で会って来たばかりなのに。いったい、どうなっているんだ。おれは驚いた。何がどうなったのか、わけが分からなくて、しばらくの間、呆然としていた。
そして、だいぶたってから、やっと、分かって来た。あの二年半前の夏の里帰りの途中の電車の中で見た長い夢、あの夢を見ていた時が、ちょうど、あの子がこの世を去る時だったのだ。なんと言うことだ。あれからもう、二年半以上も時がたってしまっていると言うのに、今ごろになってやっとそんな事に気がつくとは。本当におれは、だめな人間だ。こんな、人間にとって大切な事に、どうしてあの時、すぐに気づかなかったのだろうか。
もう遅い。もしかしたら、自分は二年半もの間、時を無駄に過ごして来てしまったのかも知れない。おれは苦笑した。本当に自分の生き方は、これでよかったのだろうか。まあ、故郷に帰って来て、自分の親と一緒に暮らす事になったのだから、間違った生き方をしているわけではないとは思うが。それに、過ぎ去ってしまった時は、もう、取り戻す事はできない。
おれは、二階の部屋の窓のカーテンを開けて、自分の家の周りの町の中の景色を眺めた。そして、いつの間にか、あの山の中の研究所の最後の朝に出会った、あの夜の学校の卒業式の事を思い返していた。
終わり
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