2008年5月18日日曜日

夜汽車 12 春の思い出

 最後の勤務が、これで終わってしまった。あしたからは、残っている有給休暇をすべて使い切って、それから、退職の手続きをするために本社に出て行く事になる。そして、それが終わると、アパートの荷物をまとめて、故郷の実家に帰って行くことになるのだ。
 いったん社会人になった人間が、また学生に戻るのだから、もう親の援助を頼るわけには行かない。なるべく経費がかからないようにするため、実家から通える学校をおれは選んだ。

 そんなわけで、これで乗るのが最後となった電車の中から、移り行く窓の外の景色をぼんやりと眺めていた時、ふとおれは、専門学校に通っていた最後の夏、企業での実習を終えた後のお盆の里帰りの電車の中で見た、あの長い夢を思い出した。そう言えば、あの時見た夢の中で、同級生だったあの子は、大学をその時、休んでいるような事を言っていた。もしかして、大学で勉強する事に、意味を感じなくなってしまったのだろうか。まさか、大学に通うのがいやになったわけじゃないだろうな。なんとなくおれは、自分の選んだ道に不安を感じた。

◆ やがて、最後の有給休暇が終わると、おれは退職の手続きのために、久しぶりに本社に出かけた。そこですべての手続きを終えると、二年間通った会社に最後の別れを告げ、その後、あちこちを回って引越しのための準備を済ますと、アパートに戻った。しばらくして、頼んでおいた引越しのトラックがアパートに着いた。全部の荷物を積み上げてから、トラックの助手席に乗ったおれは、そのまま故郷へと向かった。

 実は、おれはその時、まるで生きている気分ではなかった。それは、受験した大学に自分が合格しているのかどうか、まだ分かっていなかったからだ。合格していたら会社を辞めて、合格していなかったら、そのまま会社を続けて、何事もなかったかのようにしているのが賢い生き方なのだろうが、それでは、年度末に突然、予告無しに会社を辞めて、職場の仲間たちに大変な迷惑をかける事になってしまう。おれには、そんな事はできなかった。それで、合格できるのかどうか、まったく予測がつかない時点で、会社に退職を申し出たのだ。もし、合格していなかったら、来月からどうするのか。そんな事は、何も考えてはいなかった。やり残した会社の仕事を片づける事だけで、毎日がてんやわんやだったのだ。それに、この一年間は、会社の仕事が終わって、夜、アパートに帰って来てから、毎日、高校で勉強した事を復習していた。

 実家に帰り着いて、久しぶりに会った両親は、以前と比べて年をとって、疲れているように見えた。

◆ 家に帰った次の日は、大学の合格発表の日だった。発表の時間に間に合うように、おれはバスに乗って大学へ向かった。大学の門を入ると、中では早々と、合格が決まった新入生に先輩の学生たちが、部活やらサークル会やらの勧誘をしていた。そして、喜んでいる人たちや沈んでいる人たちが、ぽつりぽつりと帰って行った。おれは急いで、番号が張り出してある大きな掲示板の前まで行った。すると、意外な事に、自分の番号があった。おれは驚いた。たぶん、受からないんじゃないのか、とずっと思っていたから。どうして受かったのか、よく分からなかった。自分はそんなに、努力をしたのだろうか。どうもこれは、自分の努力のせいじゃない。と、何となく感じながら、おれは掲示板を後にして、帰る事にした。

 と、その時、少し離れた所から、自分の方を見ている人と、ばったりと目が合った。目が合うと同時に、その人はにっこりと笑うと、すぐ、どこかに走り去って行ってしまった。
 あれっ、今の人。ひょっとして、高校の時の同級生だった、あの子じゃなかったか。え、どうして。あの子は確か、こんな田舎の大学なんかじゃなくて、ずっと都会の大学に入学して、そして今頃はもう、卒業しているはずなのでは。あ、待てよ。そうか。そうだった。あの子は、確か、大学を休学していたのだ。ひょっとして、はじめに入った大学を途中でやめて、その後、ここの大学に入り直したのだろうか。まさか。学校が春休みで、たまたま、故郷に帰って来ていただけだったのかも。いや、そもそも、あの子が大学を休学していたと言うのは、おれが見た夢の中での話でしかないし。

 確かにさっき目が合った子は、同級生だった子に違いない。自分の知らない人だったら、にっこり笑ったりなんかしないから。でも、どうしてあんなところにいたのだろうか。  とりとめも無く、さっきの事を振り返りながら、おれは帰りのバスの中で揺られていた。やっぱり、あの子は、はじめ入った大学をやめて、あそこの大学に入り直していたのだろうか。それで、サークル会か何かの勧誘のために、きょうの合格発表の会場に来ていたのだ。そしてそこで、ばったりとおれと出会ってしまったので、たぶん、恥ずかしくなって、どこかへ走って逃げて行ってしまったのだろう。もしかして、今から二年半前の、あの夏の里帰りの電車の中で見た夢の中で、今、大学を休んでいると、あの子が話していたのは、あの大学に入り直すために、どこかの予備校にでも通っていたのかも知れない。だんだん、そんな気がして来た。

 本当にあの子が、自分がきょう合格した大学に通っているのか、今すぐにでも確かめたい。そんな思いが、だんだんと強くなって行った。そして、思いついた。  そうだった。去年、届いていたはずの同窓会名簿をまだ見ていなかった。二年半前の夏に見た時は、あの子は家を引っ越した後で、連絡先が不明になっていたから、その後は二度と、開いてみた事も無かったが、ひょっとして、新しい名簿には、今通っているはずの大学の名前が載っているかも。

◆ やっと停留所にバスが停まると、おれはバスを駆け降りて、家まで飛ぶように走って行った。そして、家に着くと、階段を駆け上がって、高校生だった頃の自分の勉強部屋の本棚から、まだ封を開けていない、去年届いていた名簿を取り出して、急いで封を破って中を開いた。
 もしかしたら、連絡先は、やっぱり空白のままになっているのだろうか。そんな不安を感じながら、同級生の欄を捜した。そうしたら、なんと、空白にはなっていなかった。その子の連絡先には「死去」と載っていた。

 まさか。信じられない。さっき、大学の中で会って来たばかりなのに。いったい、どうなっているんだ。おれは驚いた。何がどうなったのか、わけが分からなくて、しばらくの間、呆然としていた。
 そして、だいぶたってから、やっと、分かって来た。あの二年半前の夏の里帰りの途中の電車の中で見た長い夢、あの夢を見ていた時が、ちょうど、あの子がこの世を去る時だったのだ。なんと言うことだ。あれからもう、二年半以上も時がたってしまっていると言うのに、今ごろになってやっとそんな事に気がつくとは。本当におれは、だめな人間だ。こんな、人間にとって大切な事に、どうしてあの時、すぐに気づかなかったのだろうか。

 もう遅い。もしかしたら、自分は二年半もの間、時を無駄に過ごして来てしまったのかも知れない。おれは苦笑した。本当に自分の生き方は、これでよかったのだろうか。まあ、故郷に帰って来て、自分の親と一緒に暮らす事になったのだから、間違った生き方をしているわけではないとは思うが。それに、過ぎ去ってしまった時は、もう、取り戻す事はできない。
 おれは、二階の部屋の窓のカーテンを開けて、自分の家の周りの町の中の景色を眺めた。そして、いつの間にか、あの山の中の研究所の最後の朝に出会った、あの夜の学校の卒業式の事を思い返していた。

 終わり