2008年5月18日日曜日

夜汽車 3 再会

◆ しばらくたった、ある金曜日。おれは風邪気味で、会社に出勤はしたものの、昼食の後、急に体の具合が悪くなって来たので、やむなく早退することにした。
 帰りの電車の中で、電車を降りてから自転車に乗ってアパートまでの長い道のりを漕いで帰るのはつらいな、と何となくぼんやりと考え込んでいるうちに、うっかり降りる駅を乗り越してしまっていた。しかたなく、次の駅で電車を降りて、逆方向の電車が来るのを待っていたところ、間もなく電車が入って来ます、と言うアナウンスがホームに流れてベンチから立ち上がったところで、ふと見ると、駅の階段を大急ぎで上って来る女の人がいて、顔つきや体つきがあの高校時代の同級生によく似ている。もしかして、以前の金曜日の夜に、にこにこ鉄道の赤い電車の中で見かけたのは、あの人じゃなかったのか。と思ったところで、ホームに電車が入って来た。あの人も自分と同じ電車に乗るのだろうか、と思って見ると、そうじゃなくてホームの反対側に立っている。しかたがない。せっかくまた出会えたと言うのに、何とも残念な事だが、おれは帰りの電車に乗った。ホームにベルが鳴って、ドアが閉まる直前におれは、そうだった、と気がついて乗った電車から飛び出した。明日は仕事が休みの土曜日だった。もし、熱がひどくなったら、明日と明後日の二日間はアパートの部屋でずっと寝ていればいい。せっかくここでまた出会えたのだから、これからあの人が一体、どこへ行くのか、後をついて行ってみよう。

 結局、おれは、その女の人と同じ電車に乗ってしまった。あいにく座席が空いていなくて、ずっと立ちっ放しだった。いったい、あの人はどこの駅で降りるのだろうか。このまま行くと、あの人が住んでいるであろう所まで、ずっとついて行くことになってしまうのだろうか。などと思っていたが、いつまでたっても女の人は、座席から立ち上がらない。とうとう、電車の終点まで来てしまった。ひょっとしてここから、更に別の電車に乗り換えるのだろうか。これでは、どこまでついて行ってもきりが無い。いい加減、この辺で終わりにしないと、おれもだんだん体がしんどくなって来た。

◆ 乗客が皆、降りて行くので、おれも電車から降りようと思って見ると、女の人はずっと座席に腰掛けたままで、立ち上がろうともしない。かと言って、居眠りをしているわけでもない。ちゃんと目を開けて、窓の外のホームのようすを見ている。あれれ、何だろう、この人は。このままこの電車にずっと乗っているつもりなのだろうか。と思っていると、女の人と自分以外には、電車の中には誰もいなくなってしまって、中に入って来る人もいない。しばらくすると、この電車はこのまま車庫に入りますのでご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえた。あの女の人、もしかして、耳が聞こえないのか。などと思っていると、開いているドアから駅員が、
「お客さん!!急いで降りてください!!」
と、おれに向かって大声で叫んだので、おれはびっくりして電車のドアからホームに飛び出した。おれが電車から出ると、すぐにドアが閉まった。あの女の人はどうしたんだろう、と思って見ると、ホームに出たようすも無い。まだ電車の中に残っているのだろうか、と思った時には電車が動き始めていて、中にいるのかいないのかよく見届けられないうちに、電車が走り去って行ってしまった。何ともあっけない幕切れだった。

 おれはしかたなく、ホームの反対側に停まっている帰りの電車に乗った。座席に腰掛けたところで、なぜあの女の人に話しかけてみなかったのだろうか。もしかして本山美香さんじゃありませんか、と一言話しかければよかった。そうすれば、あの人が、本人なのか、それともまったくの別人なのか、ぐらいの事はすぐに分かったはずなのだ。本当におれは臆病な人間だな、とつくづくと思った。

◆ ホームにベルが鳴って、今度こそ本当に、自分の家に帰ることになる電車が出発しようとする時、一人の女の人があわてて電車の中に駆け込んで来て、おれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛けた。何だかこの人、変な人だな。と思っていると、座席に腰掛けた後も、電車の中をあちこちきょろきょろと見回している。しばらくすると突然、立ち上がってどこかへ行ってしまった。ああ、やっといなくなった、と思っておれはほっとした。ところがしばらくたつと、またその人が戻って来て、またおれのすぐ隣にぴったりと体をくっつけるようにして腰掛ける。まいった。早く降りたい。そう思っていると、再び女の人は立ち上がって、また電車の中のどこかに行ってしまった。あの女、またここに戻って来るな。やれやれ。と思っていると、そのうちいつまでたっても戻って来なくなった。
 しばらくしておれは、あと幾つ目の駅で降りたらいいのだろうか、とふと思って、電車の中のアナウンスを聞いたが、次に停まる駅の名前を聞いても、どのあたりなのかさっぱり分からない。何かおかしい。本当におれの降りる駅まで行くのか、この電車は。

 おれは立ち上がって、電車の中に貼ってある路線図を見た。ところが、車内のアナウンスで言っている駅が、どこにも無い。いったい、どこを走っているのだ。と思っていると突然、窓の外が真っ暗になって、電車の音が急にうるさくなった。ありゃりゃ、まいった。いつの間にか地下鉄になってしまっている、この電車。さっきまで地面の上を走っていたのに。
 おれは、あわてふためいた。そして、やっと分かって来た。さっきの女の人が立ったり座ったり、そわそわしていた時に電車がしばらく停まっていた駅で、車両の切り離しをしていたのだ。それで、前の方の車両だけが地下鉄になってしまった。あの時、後ろの車両に移らないといけなかったのだが、あの女の人に気を取られてしまっていて、車内のアナウンスを聞き逃してしまったのだ。

◆ やむをえん。すぐ次の駅で降りて、電車の切り離しをした駅まで、またいったん戻らないといけない。しかし、よりによって風邪で頭が割れるように痛い時に、なんでこんな災難に遭わなければならないのだろうか。
 おれは次の駅で降りようとしたが、見るとプラットホームは片側の線路だけで、反対側の線路のホームが見当たらない。これってもしかして、地下鉄の駅の構内の、迷路のようになっている通路を通り抜けて行かないと、反対側の線路のあるホームにたどり着かないのか。それだったら、ここは乗り越しだ。

 おれは、更にその次の駅で降りる事にした。そのうち、小便がしたくて我慢ができなくなって来た。次の駅は、よりによって何とも薄暗くて寂れた駅だった。電車が停まってドアが開くと、おれは飛び出すように電車の外に出た。そしてすぐに、ホームにいる駅員に、トイレはどこかと聞くと、困った顔をして、ホームにはトイレは無いので、いったん改札口を出てから、駅のトイレを使ってくれ、と言う。それは困る。おれの持っている定期券では、この駅の改札口を出る事はできないのだ。困り果てていると、たまたま通りかかった乗客が、トイレならあそこにあるぞ、と場所を教えてくれた。すぐに、教えられた通りにホームの端の方まで行くと、急にものすごい突風が前方から吹き荒れて来て、おれは目を開けていられなくなって、後ろ向きになってそのままその場に立ちすくんだ。しばらくして風が止んで、前方を振り返って見ると、ここから少し先にトイレがあります、と言う表示が出ている。なんだ、ちゃんとホームにもトイレがあるじゃないか。どうして、さっきの駅員は教えてくれなかったのだろう。と思いながらおれは、標識に書いてある通りに、薄暗くて狭い通路の中を入って行った。

◆ しばらく歩いて行くと、小さな灯りのついたトイレがやっと見つかった。おれはほっとした。トイレで用を済ませてから、手を洗おうとして水道の蛇口をひねったが、水が出ない。もしかして、使ってはいけなかったのか、ここのトイレは。さっきの駅員が、困った顔をして教えてくれなかった理由が分かった。
 おれは、トイレを出てホームに戻ろうとしたが、まわりが暗くて、どこを通ってここまで来たのかがよく分からない。確かこっちの方だった、と思って狭い通路を歩いていると、途中でドアの隙間から灯りが漏れている所がある。さっきここを通った時には、こんな所は無かったのだが。もしかして、戻る方向を間違えたのだろうか。と思ったおれは、ここの部屋の中にだれかがいたら聞いてみようと思って、思い切ってドアをノックしてみたが、何の返事も無い。そこでおれはそっと取っ手を回して、ドアをほんの少しだけ開けてみた。するとそのとたん、
「どうぞ、お入りください。」
と言う、女の人の声が中から聞こえたので、おれはびっくりして心臓が止まりそうになった。

◆ 恐る恐るドアを開けて中に入ると、急に部屋の中が明るくなった。どこに人がいるのだろうか、と見回してみると、狭い部屋の隅の方に女の人が立っている。と言うか、本山美香じゃないか、この人は。おれは仰天するほど驚いたが、女の人はきょとんとした顔をしている。
「本山美香さんじゃないですか。」
 思わずおれがそう言ったとたん、女の人が別の人の顔に見えて来た。女の人は、ぼんやりとした眼差しでしばらくおれの方を見つめていたが、やがて薄っすらと微笑むと、
「どなたですか、あなたは?」
と、冷たく聞き返した。ああ、やっぱり人違いだったのか。確かに、はじめ見た瞬間は、もしかして本人かと思ったが、よく見ると、全然違う、別の人だった。ええい、もう、どうでもいい。と思って、おれはそのまま続けた。
「高校の時の同級生の中山次郎ですよ。」
「中山次郎さん?そんな人、いましたかねえ。」
 しまった。高校生の時の本山美香は、全然こんな感じじゃなかったから、これはもう、まったくの別人だ。人違いだったと気がつきながら、ついつい余計な事を言ってしまった。どうなっているんだ、きょうのおれは。
 ところが、その後、しばらくして、
「ああ、やっと思い出しました。」
とか言って、女の人が目を大きく見開いて、おれの顔をつくづくと見つめた。そして、ぽつりと言った。
「あなた、まだ、生きていたんですね。」

 その時の、まるで思ってもいなかった言葉に、おれは驚いた。一瞬、女の人が恐ろしい視線でおれをにらみつけているのを感じたが、すぐにまたぼんやりとした眼差しに戻っていた。女の人は続けて言った。
「やっと幸せになることができました。」
 女の人はそう言うと、にっこりと笑った。ところで、あなたはどうしてこんな所にいるのですか。と、おれは本当はその時、聞いてみたかったのだが、あなたこそどうしてこんな所にやって来たのですか、と逆に自分が問い詰められそうな気がして、おれはいい言葉を見つけられずに黙っていた。女の人は話し続けた。
「生きていた時は、苦痛の毎日でした。」
 これって、自分は死んでしまった後の幽霊だ、とおれに向かってわざわざ宣言しているのだろうか。もしかして、病気の苦痛からやっと開放された、とでも言っているのだろうか。何だかそういう事じゃなくて、もっと別のことを言っているような気もするが。
「どうして今は、幸せなんですか。」
 相手の言っていることがよく理解できなくて、ついついおれがそう尋ねると、女の人は再び、ささやかな笑みを口元に浮かべて答えた。
「永遠の苦しみの世界に入ることができたからです。」

 何だかおかしいぞ、この女。さっきから、言っている事が全然つながっていないじゃないか。こいつ、まともな人間じゃないぞ。などと思っているうちにだんだんと、頭の痛みが激しくなって来て、とうとうおれは立っているのが我慢できないくらいになった。
「何をわけの分からない事ばかり、さっきから言っているんだ。いったい、おまえは幽霊なのか、化け物なのか、それとも人間なのか。さっさと、はっきりしろ。」
 急に頭が切れてしまったおれは、我知らず乱暴な言葉を思わず、吐いてしまった。すると女の人は、とたんに青ざめた顔をしてうつむいた。しばらくすると、しくしくと泣き声が聞こえて来て、そのうち大粒の涙がぽたぽたと床に落ち始めた。そしてとうとう屈み込んで、うめくように泣き崩れてしまった。
 こんな幽霊っているのか。と言うか、そんなことはともかくとして、なんでおれがこんな所で、こんな馬鹿なやつの相手をしていないといけないんだ。風邪で頭が痛くて、今ごろはとっくに、アパートに帰って寝ているはずだったのに、なんでおれはこんな所に今いるのか。おれは、自分で自分に腹が立って来た。もういい。この女が幽霊なのか、化け物なのか、人間なのか。そんな事はもう、どうでもいい事だ。今やるべき事は、すぐに、アパートの自分の部屋に帰って寝ることだ。

 おれは心に決めると、女の屈んでいる狭い部屋を出た。そして、むしょうに腹が立ったので、叩きつけるようにドアを閉めた。おれはホームに戻る通路を歩き始めた。そのとたん、頭の割れるような激しい痛みが襲って来た。

2004.12.24 記事公開