2008年5月18日日曜日

夜汽車 4 まぼろし

◆ その場でおれは、気を失ってしまった。やがて、夢の中で救急車の音が聞こえて来て、自分が救急車に乗せられて、どこかに運ばれて行くのを感じた。だいぶ時間がたって目を覚ますと、おれは病院のベッドの中で寝ていた。病室の窓のカーテンの間から、朝のまぶしい太陽の光が入って来た。誰が自分をここまで運んで来てくれたのだろうか。たぶん、あの狭い地下鉄の駅の構内の薄暗い通路に倒れていた所を駅員が見つけて、運び出してくれたのだろう。おれはぼんやりと、ベッドの中で考えた。いつの間にか頭痛が消えて、頭の中がすっきりとしていた。さっきまでひどい頭痛だったはずなのに、こんなに簡単に治ってしまっていいものだろうか。
 しばらくしておれは、さっきから
「ポコン、ポコン」
と威勢のいい音がどこかから聞こえて来るのに気がついた。ああ、あれは壁打ちテニスをやっている音に違いない。誰かがこの病院の建物の壁に向かって、テニスボールを打っているのだ。そんな事をとりとめもなく考えているうちに、だんだんうとうととして来て、再びおれは眠り込んでしまった。

◆ 激しい風が吹きすさぶ音の中で、やっとおれは目が覚めた。気がついてみるとおれは、アパートの自分の部屋のふとんの中で寝ていた。まさか、何でだ?さっきまで病院のベッドの中で寝ていたはずなのに、いつの間にこんな所に移されたんだ。と言うか、病院がそんな事までしてくれるはずはないから、さっきまで病院のベッドの中で寝ていたのは、実は、夢だったと言うことか。すると、自分が倒れていた所を救急車で運ばれたのも夢だったという事だ。やれやれ、一体どこまでが夢だったのか、わけが分からなくなって来た。
 しばらくすると、外の風の音が治まって来た。おれはふとんから立ち上がろうとしたが、その途端、頭の割れるような痛みがして、再びおれはふとんの上に倒れた。くそっ、頭痛が治ったと思ったのも夢だったのか。おれはうめくようにつぶやいた。いったい、誰がアパートのこの部屋まで自分を運んで来てくれたのだろうか。もしかして、自分で自転車を漕いでここまで帰って来ていたのだろうか。どうもよく分からない。

 しばらくたって、やっとおれは意を決してふとんから立ち上がると、洗面所へ行って顔を洗い、冷蔵庫の中から飲み物を取り出して飲んだ。気分が悪くて、何も食べる気にならなかった。会社に出かけて行った時の服装のままで、ふとんの中で寝ていたことにやっと気がついた。外はすでに早朝になっていた。今日、病院に行くべきかどうか、どうしようかと迷ったが、寒かったので、行かないことにした。おれはパジャマに着替えると、その日は一日中ふとんの中で寝ていた。

◆ 次の日の日曜日。さすがに腹が減って来たが、冷蔵庫の中にはほとんど何も残っていなかったので、昼前に近くの店に食べ物と飲み物を買いに出かけることにした。おれは着替えるとアパートの部屋を出た。自転車の事が気になっていたので、アパートの裏の自転車置き場に行ってみたが、自分の自転車は無かった。やはり何者かが、おれを車か何かに乗せてこのアパートまで送って来てくれたのだ。一体、誰なのだろうか。おれがこのアパートに住んでいる事を知っている誰かなのだろうが、よく分からない。自分の自転車が、駅前の自転車置き場に今もちゃんとあるのかどうかが心配になって来た。早く行って確かめないと。
 店で買い物をしているうちに、また頭が痛くなって来た。きょうはもうこれ以上、外に出ているのは無理だ。早めに買い物を終えてアパートに帰ると、おれはまたふとんの中にもぐった。

◆ 月曜日の朝になると、会社に仕事を欠勤する旨の電話をして、昼前に病院に行った。病院から帰って来てしばらく休んでいると、やっと体が楽になって来たので、今日こそ自分の自転車が駅の自転車置き場にあるかどうかを確かめに行かないといけないと思って、タクシーを呼んで駅まで出かけた。駅前の自転車置き場に行ってみると、自分の自転車がちゃんとそこに残っていた。おれはほっとしたが、自分が金曜日の夜にどうやってアパートまで帰って来たのか、まったく見当がつかなかった。今後、風邪で熱を出した時のために、自分のアパートの近くを通るバスの番号をバス乗り場を回って確かめると、おれは自転車に乗って、やっとアパートへの長い道を帰って行った。ひとまず、おかしな悪夢に区切りをつける事ができたようだったが、地下鉄の駅の構内で倒れていたはずの自分をアパートまで送り届けてくれたのが何者なのかは、まったく分からないままだった。

◆ やっと風邪が治ってから、再び金曜日になった。仕事が終わって帰りの電車に乗ったおれは、あの謎の女と出遭った場所にもう一度行ってみようと思い、再びあの地下鉄の駅へ向かった。ホームに降りて、あの薄暗いトイレに行く通路を捜したら、いつの間にか立ち入り禁止の工事現場になっていて、まわりの壁が全部壊されていた。どうやらあのトイレも、謎の女を見た狭い部屋も、もう無くなってしまったようだった。あのにこにこ鉄道のお茶の湯駅も取り壊されたし、おかしな女と出会った地下鉄の駅の部屋も取り壊された。どうしてなんだろうか。おれはしばらく、ぼんやりとそこに立っていたが、先週の金曜日に、帰りの電車の終着駅から車庫に向かう回送電車に、あの同級生にそっくりの人が乗っていたはずだった事を思い出した。あの電車の車庫まで行ってみたら、何かがあるかも知れない。ふと、そう思いついたおれは、電車に乗ると、そのまま終点の駅まで行った。

 電車が終着駅のホームに到着すると、この電車はこのまま車庫に入りますので、ご乗車できません、と言うアナウンスがホームに流れているのが聞こえて来た。乗っていた乗客たちが次々と降りて行き、とうとう電車の中はおれ一人になった。その時、なぜかおれは、とっさに電車の床に身を伏せた。窓の外から見えないように、座席の下にぴったりと体を寄せてうつ伏せになった。これでホームの駅員に見つからなければ、このままこの電車の車庫まで行けるはずだ。
 すると、しばらくして、隣の車両から誰かがやって来る足音が聞こえて来た。やっぱり甘かったか。駅員が、中に乗客が残っていないかどうかを確かめに回って来たのだ。まずいことになった。おれが気を失って倒れていると勘違いされて、病院に運ばれるかも知れない。どうしたものか。
「おいっ、大変だぞー。」
と言う駅員の叫び声が、今にも聞こえて来そうだった。足音はどんどん近づいて来て、おれがうつ伏せになっているすぐ横を通り過ぎると、そのまま遠ざかって行った。あれれ、どうしたんだろう。と思ってちらりと見ると、通り過ぎて行ったのは駅員ではなくて、ちょっと変わった風貌の中年の男で、電車の網棚に残っている新聞や雑誌をあさっていたのだった。男がちょうど次の車両に移ったところで、何人かの駅員が電車の中に入って来て、男を無理やり外に連れ出すのが聞こえた。そして、しばらくするとドアが閉まり、電車が車庫に向かって動き出した。信じられないほどラッキーだった。あのおかしな男に駅員の注意が集まったので、おれが座席の陰に隠れているのが誰にも気づかれなかったのだ。

 電車が走り続けている間、中には人の気配は全くなかった。しばらくすると、やっと車庫に到着したらしく、電車が停まった。そして車内の灯りが消えた。

◆ 一体、電車の外はどうなっているのだろうか。と思って、起き上がって外を見ようとすると、誰かの話し声が聞こえて来る。鉄道の職員が見回りに来たようだ。おれはそのまま身を伏せていた。すると、聞こえて来るのは女の話し声だった。電車の車庫に女の職員なんているのか。と、不思議に思っていると、どうも声は電車の中から聞こえて来る。おれはぎくりとした。おれ以外にも、この電車に乗っていたやつがいたのか。いったい今まで、どこに隠れていたのだ。
 話し声はだんだん近づいて来て、何を話しているのか、はっきり聞き取れるくらいになった。
「生きているのってつらいよね。」
「本当ね。一体、どうしたらいいのかしらね。」
 こいつらいったい、何者なのだろう。普通の人間は、こう言った会話はしないものだが。
「悟りを開くってのはどう?」
「それって、どうする事なの?悟りを開くとどうなるの?」
「よく分からないけど、永遠の苦しみの世界に入ることができるみたいよ。」
「そんなのより、無我の境地に入った方がいいんじゃない?」
「それって何なの?」
「こっちの方は、永遠に虚しい世界に入ることができるらしいわ。」
「ふうん。あんまりおもしろくなさそうね。」
 驚いた。何が言いたいのか、まるでわけが分からん。よく会話が成り立っているな。待てよ、何かこいつらの言っているような事、前にも聞いたことがあるぞ。ええと、どこで聞いたのだったかな。だめだ。さっぱり思い出せない。

 おれがあれこれと考えているうちに、話し声はだんだんと遠ざかって行って、そのうち何も聞こえなくなってしまった。やっと立ち上がって、おれは自分のまわりを見回したが、窓の外は真っ暗で、いったい外がどんな場所なのだか、まったく分からない。座席に腰掛けると、ちょうど手元に乗客が残したままの新聞があったので、おれは座席の上で脚を伸ばし、そのまま仰向けになると、新聞紙を広げて腹の上にかぶせた。疲れていたので、そのままうとうとと寝入ってしまった。

◆ いつの間にか眠り込んでしまったおれは、電車の動く音でやっと目を覚ました。座席から起き上がると、まぶしい朝日が目に入った。もう朝になってしまっていたのか。まわりを見回すと、電車の中には自分以外には誰も乗っていない。どうやら車庫から始発の駅に向かう途中のようだ。それにしても、あれから一度も鉄道の職員が電車の中を見回りに来なかったのは、何とも不思議だ。世の中ってこんなものなのか。ぼーっとしたまま座席に腰掛けていると、やがて電車は始発の駅のプラットホームに入って行った。ホームには朝の通勤ラッシュのサラリーマンが列を作って並んでいる。へえー、朝早くからいつもこんなに大勢の人たちが来ているのか。と思ってホームの大きな時計を見ると、八時過ぎだった。何だ、もうこんな時間なのか。ひょっとして、電車が一番混む時間じゃないのか、今は。と思っていると、一斉に開いたドアからどっと大勢の通勤客が入って来て、電車の中はいっぺんに満員の状態になった。まさしく、自分が毎朝、電車に乗って仕事に出かける時とまったく同じ状態だった。と言うことは、自分もこれからこの人たちと一緒に、仕事に出かけて行くのだろうか。と思った時、何だか変な気がして来た。今日ってたしか、土曜日じゃなかったか。おれはふと、自分のすぐ隣に腰掛けている人が開いている新聞をのぞき込んだ。日付が月曜日になっている。ばかな。おれがこの電車に乗ったのは、金曜日の夜だったはず。そのまま土曜、日曜とまる二日間ずっとこの電車の中で眠っていたのか。そんなはずは無い。おかしい。

 おかしい、おかしい、と思いながら、周りの乗客をよく見てみると、どうも、普段着というか、会社に仕事で出かける時とは、何か違う服装の人が多くて、家族連れも多い。平日の出勤時なら、こんな乗客は少ないはずだ。ということは、きょうはやっぱり、土曜日なんじゃないのか。だんだん、そんな気がして来て、おれはもう一度、隣の人が開いている新聞をのぞき込もうとした。すると、そのとたん、隣の人は読んでいた新聞を俺に向かって思いっ切り叩きつけると、立ち上がって、電車の外に出て行ってしまった。俺が何度も新聞をのぞき込もうとしたので、あの人を怒らせてしまったようだ。なんか、まずい事をしてしまったな、と一瞬、落ち込んだが、周りの乗客が別に気にしていないようなので、おれは新聞を拾い上げて、日付を見た。すると、さっきは確かに月曜日になっていたのに、よく見てみると金曜日になっている。つまり、あの人がずっと見ていたのは昨日の新聞だったのだ。それでおれは、やっと分かった。これは、昨夜、おれが毛布の代わりに使った新聞だ。あいつ、人の持っていた新聞を勝手に取り上げて読んでいたのか。おれが、何度ものぞき込むので、きまりが悪くなって、逃げ出して行ったのだ。
 なんだ、そう言う事だったのか。と思ったおれは、大事な事をやっと思い出した。そうだった。おれがわざわざこんな所まで来たのは、電車の車庫に何があるのか、確かめる為だった。ところが、眠り込んでいる間に、車庫を出て始発の駅まで来てしまっていた。いったい、どうすればいいんだ・・・。と思ったその時、

◇◇ きゃあーっ、だれかいるーっ ◇◇

と言う、ものすごく大きな女の叫び声が、電車の奥の方から聞こえて来た。

2005.01.26 記事公開  2020.09.29 記事修正