◆ やっとおれは目が覚めた。電車の中はまだ真っ暗で、外は夜明け前でうっすらと空が明るくなりかけていた。起き上がってみると、隣の車両を懐中電灯の明かりが遠ざかって行くのが見えた。しまった。やっぱり、鉄道の職員が見回りに来たのだ。すぐに、ここから逃げ出さないと。ところが電車のドアはしっかりと閉まっている。やむを得ん。窓から逃げるしかない。おれは電車の窓を開けようとしたが、慌てふためいていたので、なかなかうまく窓が開かない。ちくしょう、なんでさっさと開かないんだ。俺は自分で自分を罵りながら、なんとか窓を開けたが、その時、隣の車両から二つの明かりがこちらに向かって来るのが見えた。さっきの女の職員が仲間を連れて来たのだ。だめだ。もう、時間が無い。
おれは、窓から出るのを諦めて、急いで車両の一番奥の座席の陰に隠れた。すぐに、反対側の車両から二つの明かりが入って来た。
「あれっ、いなくなってる。さっきまでここで、新聞紙を被って寝ていたのに。」
「窓が開いてる。きっと、ここから逃げたんだわ。」
「あっ、見て見て。あそこを男が走って行く。きっと、あの男よ。」
「間違いない。急いで追いかけましょう。」
そう言うと、車両のドアが開く音がして、二人の女の職員が外へ飛び出して行った。
そっと起き上がって、窓の外を見ると、二つの明かりが真っ暗な闇の中を遠ざかって行くのが見えた。あの二人、本当に誰かを追いかけているみたいだ。いったい、誰を追いかけてるんだ。あ、そんな事はどうでもいい。すぐに、ここから逃げ出さないと。俺は急いで、二人の女が出て行ったドアから外に出ると、車両の下を潜って、線路の反対側に出て、そのまま闇の中を走り始めた。二人の女は向こう側を走って行ったから、おれがこちらに逃げて来た事は気づいていないはずだ。おれは夢中になって走り続けた。途中、林みたいな所や畑みたいな所を走り抜け、ようやく空が明るくなりかけた頃には、知らない町の中を走っていた。
◆ おれより先に電車から逃げて行ったらしい男は、いったい誰なんだ・・・。いつの間にか、歩きながらおれは考えていた。やっとのことで、電車の車庫まで来れたのに、真っ暗で、どんな所なのかも分からないまま逃げて来てしまった。おれはそこで、はっと立ち止まった。何をやっているのだ、お前は。すぐに車庫まで引き返して、そこがどんな所なのかを確かめないと。おれは歩いて来た道を引き返した。
しばらくすると、見晴らしが良くなって、周りに高い建物が無くなって来て、やがて周りは、地面がずっと真っ平らな延々と続く平地になって行った。あれっ、電車の車庫ってこんなところだったか。ひょっとして、飛行場だったのか、ここは。青い空を見上げると、白い雲が円盤のように見える。今にも、空飛ぶ円盤がここに舞い降りて来そうな気がした。まるで地平線に向かって歩いているかのように、どれだけ歩き続けて行っても周りの景色は、何一つ変わって行かない。一体、どこまで歩いて行けばいいのだろうか。と言うか、電車の線路がどのあたりを通っているのかさえ、まったく分からない。周りを見回しても、どこにも電車らしき物は見えないし・・・。
もしかして、歩く方向を間違えているのだろうか。だいぶ歩き続けた所で、やっとおれはそう思った。周りに目印になる物が何も無いので、一体、自分がどんなところにいるのか、まったく見当がつかない。これって要するに、道に迷ったのと同じ事なのか。このまま歩き続けていると、車庫にたどり着けないどころか、夜までにアパートに帰れなくなるかも知れない。
思わずおれは、真っ直ぐ上の空を見上げた。その瞬間、空全体が真っ赤になって、おれはそのまま地面の上に崩れるように倒れた。まるで、ふんわりした雲の上に倒れたような心地がした。いったい、何が起こったのかよく分からなかったが、しばらくして、地面の上に倒れたままでいる自分に気がついた。歩き過ぎて、貧血になって倒れたのだろうか。もしかしたら、このままここで、夜を明かす事になるかも知れない。などと、とりとめの無い事を考えているうちにまた、意識が消えて行った。
◆ それからまた、しばらくして、ものすごい地響きがやって来たので、驚いて周りを見回すと、巨大な戦車のような物が、真っ平らな大地の果てからものすごい速さでこちらに向かってやって来るのが見えた。危ない。このままここで倒れたままでいては、あの戦車に踏み潰されてしまう。急いで走って逃げなくては。ところが、起き上がろうとしても力が抜けて、どうしても起き上がる事が出来ない。
起きろ。起きろ。と必死に叫んでいるところで、やっと目が覚めた。気がつくと、昼をだいぶ過ぎてしまっていた。これはいかん。暗くなり始める前に、どこでもいいから電車の駅を見つけないと、本当にこのまま迷子になってしまう。おれはようやく立ち上がると、今まで歩いて来た道を引き返して行った。
だいぶ歩いた末に、やっと町の中まで戻って来れた。やれやれ、これでなんとか、アパートに帰れるかも知れない。と思ってほっとしていると、どこからか豆腐屋のラッパの音が聞こえて来た。夕方になって、豆腐屋が町の中を回っているのだ。こんな所がまだ残っていたのか。何となく不思議な町だな、ここは。などと思っていると、今度は別の場所からポンポコ、ポンポコと威勢のいい音が聞こえて来た。あっあれは、もしかして壁打ちテニスをやっている音か。しかし何となくテンポが違うな、音は似ているけど。と思いながら歩いていると、町の中のお寺の横に来ていた。そして、ポンポコと言う音と一緒に、お経を読み上げる声が聞こえて来た。そうか、あれは木魚を叩いている音だったのか。町の中を通り過ぎた時、やっと電車の駅を見つけた。本当に疲れた。改札口からプラットホームに上がると、何か見覚えがあるな、と思ったら、回送電車に乗って行った、あの終点の駅だった。
やっとのことで電車に乗って、自分の自転車が置いてあるいつもの駅に着いた時には、脚がくたくたになってまともに歩く事も出来ないくらいになっていた。アパートまで自転車を漕いで帰るのは到底無理な状態だったので、自転車は駅前に置いたままにして、バスに乗って帰った。
◆ 翌日の日曜日は、疲れ切っていたので、一日中、アパートの部屋にいて、月曜日の朝は、バスに乗って駅まで行った。駅の階段を上るのが結構きつかった。
この日は午後になって急な仕事が入ったので、遅くまで残業してから帰った。帰りの電車を降りた時には、駅から出るバスが一時間に一本出るかどうかという時間帯になっていたので、自転車で帰る事にした。駅前の自転車置き場に行って、金曜日の朝からずっと置いたままになっていた自転車にまたがって漕ぎ始めたとたん、脚の筋肉がずっきんずっきんと痛み出した。このまま、この長い道のりを漕いで行くのは無理かもしれない。今夜はやっぱり、バスに乗って帰った方がいいか、と思ったちょうどその時、駅前を出発したばかりのバスが目の前を通り過ぎて行った。ああ、遅かったか。あれに乗ればよかったのだが、あと一時間待たなければ次のバスが来ないのなら、やっぱり今夜は、自転車で帰るしかないか。と言うことで、おれはいつもよりもゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。
◆ しばらくのろのろと自転車を漕いでいると、畑の広がる地帯に出た。やがて、後ろの方から自転車に乗った人達が、何やら話しながら近づいて来るのが聞こえて来た。どうやら二人の女の人が、並んで自転車を漕いでいるようだった。そのうち、のろのろと自転車を漕いでいるおれに二つの自転車が並んで、そして二つの自転車がおれを追い越して行った。その時、二人の女が
「ほんと、生きてるのって辛いよね。」
「いったい、どうしたらいいのかしらね。」
とかなんとか、笑いながら話している声が聞こえた。二人の女は真っ白の服を着ていた。畑の間の道なのに、なんでこんなに明るいのだろうか、と思って空を見たら満月だった。そうか、今夜が満月だったのか、と思ってペダルを漕いでいる自分の足元を見ると、くっきりと自転車の影が地面に映っていた。そう言えば、あのにこにこ鉄道に初めて乗ったのも、満月の夜だったな。何だか不思議な電車だったな、あれは。などと思い出しながらぼんやりと、目の前を遠ざかって行く自転車に乗った二人の女の後ろ姿を眺めた時、はっと思った。あの右側の女、本山美香に似てないか。後ろから見た髪形がそっくりだし、体つきも似ている。もしかして、今まで何度か出会った謎の女か、あいつらは。
とっさにおれは、二人の女の後をつけて行こうと思い立った。ところがあの二人、意外と自転車を漕ぐのが速い。と言うか、おれの方が遅すぎるのだが。このままではそのうち、あの二人を見失ってしまう。もっと速く漕がなくては。おれはペダルを漕ぐ脚に力を入れた。段々、ももの筋肉の痛みが激しくなって来た。前の方を走っていた二人の女が、急に道を曲がって、そのまま脇道に入って行った。おれのアパートへの帰り道とは方向が違っていた。おれも二人の後を追って、同じ道を曲がった。
曲がったとたんに、おれは自転車を止めてしまった。狭くて曲がりくねった道が、目の前に続いていた。おれは今まで、駅からアパートまでの一筋の道以外には、このあたりのほかの道は通った事がないのだ。夜中にこんな脇道へ入って行ったら、もとの道に戻れなくなってしまう。残念だが今夜は、アパートまでの真っ直ぐの道を帰るしかない。
おれは再び、アパートへの帰り道に戻ったが、自転車を漕ぐのがものすごく辛くなって来た。ずっとゆっくりと漕いでいればよかったものを、途中からあの二人を追いかけるために、無理にスピードを上げたものだから、そのうちまともにペダルが漕げなくなって来た。これはもう無理だ。歩いて帰るしかない。そう思ったおれは、そこで自転車を漕ぐのをあきらめて、自転車を降りると、ハンドルを手で押しながら畑の間の道を歩き始めた。
まだ帰りの道の半分までも行っていないと言うのに、このまま自転車を押しながらのろのろと歩いて行ったのでは、アパートまで帰り着くのに何時間かかるか分からない。困った事になってしまったが、それがあまり気にならないほど、満月の夜の延々と広がる畑の光景は不思議な感じがした。
そう言えば、今までこの道を歩いて帰った事は一度もなかった。いつも、一秒でも早くアパートに帰り着こうと、脇見もせずに真っ直ぐ前を見つめて、猛スピードで自転車を飛ばしていたので、こんな風景が周りに広がっていたという事に、今までまったく気がつかないでいたのだ。気がつくと月が、夜空の真上に来ていた。満月が空の真上にあるのを見た事なんて、ひょっとしたら生まれてはじめての事かも知れない。おれはそこで立ち止まって、夜空の真中にある月を見上げた。そのとたん、くらくらと目まいがして、その場に倒れそうになった。
◆ おっと、危なかった。もう少しで、倒れてしまうところだった。いや、ちょっと待てよ。これって何か、同じような事が以前にもあったような。おれはそこで立ち止まったままじっと考えた。しばらく考えているうちに、土曜日の事をやっと思い出した。そうだった。ちょうど土曜日の昼頃、あの延々と続く平地の道の上で空を見上げた時、目まいがして、そのまま道の上に倒れてしまったのだった。
おれはまた、自転車を押しながら歩き始めた。しばらく歩いたところで、またはっと思って立ち止まった。そう言えば土曜日の昼、円盤のように丸い雲が幾つも空に浮かんでいるのを見たが、あれはもしかして、今夜の満月の事だったのか。さっき目まいがした時、満月が幾つも重なって並んでいるように見えた気がするが。
今夜の帰り道は、何かいつもとは違う。そんな感じがだんだんとして来た。またしばらく歩いていると、道から少し離れた所に大きなショベルカーが停めてあるのが見えて来た。あそこで何かの工事をしているのだろうか。月の光に照らされて、黄色いショベルカーがまるで大きな生き物のように、今にも動き出しそうに見えた。ひょっとして、土曜日の昼間、道の上で気を失って倒れていた時に、夢の中で見た巨大な戦車は、実はあのショベルカーだったのかも知れない。満月の光の下で、今まで見えて来なかったもの、気づかないでいたものが、少しずつ姿を現して来ているような気がした。
夜の十二時をだいぶ過ぎた頃、遠くに見える家々の灯りが次々と消えて行った。しばらくすると、一台の自転車が、びゅんびゅんと音を立てながら、おれの後ろの方から猛スピードで通り過ぎて行った。今ごろ仕事を終えて、家に帰って行くやつがいるんだな。それにしても、背中にかばんを背負って、おれと同じ格好をしている。まるで自転車が飛び跳ねているみたいだ。おれもきっと、あんな風にしていつもは帰って行くのだろうな。自転車がどんどん遠ざかって、そのうち見えなくなって行くのをぼんやりと眺めていたおれは、だいぶたってから、ふと思った。さっきの自転車を漕いで行ったやつ、ひょっとしてこのおれじゃなかったか・・・。
2005.03.13 記事公開 2022.09.29 記事修正