2008年5月18日日曜日

夜汽車 7 夜汽車

◆ 夕方の六時を過ぎた時、これから夜汽車の旅に出かける事をおれは決心した。さっき、ハサミで真っ二つに切り離してしまったばかりの乗車券をセロテープで繋ぎ合わせると、おれはそれをポケットに入れ、部屋の窓を全部閉め、カーテンも閉めて、部屋の灯りを消すと、入り口のドアを開けて出ようとした。
 ところが、ドアを開けようとすると、ドアがまったく動かない。おかしい。どこもロックをしていないのに。取っ手を回して、力いっぱいドアを押すと、ほんの少し開きかけて、すぐに閉まってしまう。まるで誰かが、外からドアを押し返しているかのようだ。まさか、おれが隣の部屋の住人に届いた手紙を勝手に取り出して開けてしまったので、怒り狂った隣の男が、おれが外に出られないように邪魔しているのでは・・・。おれは一瞬、ぎくりとした。おれは、自分の背中をドアに当て、後ろ向きになって、思いっ切りドアを押した。その瞬間、ドアが勢いよく開いて、おれはドアの外の階段の手前で、仰向けになってひっくり返った。もう少しで頭を打つところだった。周りを見回すと、特に人がいたような気配は無い。

 おかしい。さっきのは、何だったんだ。不思議に思いながら、おれは自分の部屋のドアに鍵を掛けると、階段を下りようとした。ところがその瞬間、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、眼を開けていられなくなった。それでおれは、後ろ向きになって、階段を下り始めた。するとその時、おれの隣の部屋の入り口のドアが開いた。まさか。あの部屋はずっと、空き部屋になっていたはずなのに。いつの間に、人が入っていたんだ。それとも、アパートの家主が部屋の中を見に来ていたのだろうか。と思っていると、中年の男があわてたようすで、開いたドアから顔を出した。あっ、あの人。月曜日の真夜中に、おれを車に乗せてくれた人。やっぱり、あの部屋にずっと住んでいたのか。え、何で?と、何が何だかわけが分からなくなりかけた時、
「あんた。もしかして、わしのとこに来た郵便、間違って持って行っとらんかね。」
と、男がおれに向かって大声で叫んだ。あ。やっぱり、あの手紙の事だったのか。やっぱり、勝手に取り出してはいけなかったのだ。しまった。今すぐ謝らなくては。と、おれはあわてて
「あっ、すみません。申しわけありませんでしたあ。」
と、大声で答えると、下りかけた階段をまた、上ろうとした。その時、ものすごい突風が吹き荒れて、男はあわてて顔を引っ込めた。その瞬間、大きな音をたててドアが閉まった。その後はどれだけたっても、男は二度と、顔を出さなかった。

◆ 強い風が階段の下から吹き上げて来るので、おれは後ろ向きのままで、壁に寄り掛かりながら、階段を下りて行った。やっとアパートの外に出ると、風は止んでいた。さっきの強い風はいったい、何だったんだろう。不思議に思いながら、自分のアパートを見上げると、どの部屋の窓も皆、カーテンが閉めてある。これは以前、はじめてにこにこ鉄道に出かけて行った晩と、まったく同じだ。だが今度は、歩いてお茶の湯駅まで行かないといけない。おれは、お茶の湯駅に向かって歩き始めた。不思議な事に、今度もやはり、途中の信号はずっと青だった。一度も途中で信号待ちをする事もなく、おれは歩き続けて行った。ところで、お茶の湯駅はだいぶ前にホームが取り壊されていたが、一体、今はどうなっているのだろうか。おれはよく分からなかった。もしかしたら、もとのお茶の湯駅にいつの間にか戻っているのかも知れない。あるいは、ひょっとしたら、本当の蒸気機関車が停まっていたりして。
 何か、今までになかった何かと、今夜は出会えるような気がする。おれは次第に胸をわくわくさせて行って、いつの間にか小走りに駅に向かっていた。

◆ やっとお茶の湯駅があった場所に着いた時、おれは唖然とした。そこには駅は無く、レールも無かった。当然の事だった。だいぶ前に、駅が壊されているのをこの目で見て来ているのだから。おれは自分で、自分に呆れ返っていた。ポケットから、さっきセロテープで貼り合わせたばかりの電車の乗車券を取り出して見た。確かにそれは、お茶の湯駅発の電車の乗車券だった。だが、お茶の湯駅は、もう無い。当たり前だ。一度無くなったものが、もとに戻っているはずがない。では、このインチキの乗車券は一体、誰が作ったのか。もういい。おれは疲れていただけなのだ。それでちょっと、気晴らしに、いつもは出かけて行かないような所に行ってみたくなった。ただ、それだけの事だったのだ。
 がっかりしたおれは、一度取り出したチケットをまたポケットに突っ込むと、アパートへの道を帰り始めた。心の中は虚しさと、奇妙な怒りとで満ち溢れていた。ところが、帰りの道に向かったとたん、最初の信号がいきなり赤になった。おいおい、いったい、どう言うことなんだ、これは。行きの道はずっと青で、一度も赤にならなかったと言うのに。おれは心の中で、思わず叫び声を上げた。ところが、いつまで待っても信号が青にならない。何かおかしいぞ。この信号、壊れてるんじゃないのか。そう思って、ふと周囲を見回すと、何とすぐそばに、地下道の入り口がある。なーんだ。ここを通って行けば、いいって事か。それでここの信号は、なかなか変わらないのか。しかし、さっきここを通った時は、地下道があるのには気がつかなかったが。

 いつの間に、こんな所に地下道が出来ていたのだろうか。と思って、入り口をよく見ると、「お茶の湯駅」と書いてある。な、なんとこれは一体、どーいう事なのだ。要するに、お茶の湯駅は地下鉄の駅になっていたと言うことなのか。まあいい。とにかく、お茶の湯駅は、今もちゃんとあるという事だ。と言うことは、このチケットは本物だという事か。

◆ 何だかよく分からないまま、ポケットの中にさっきのチケットがちゃんとあるのを確かめると、おれは地下鉄の階段を下り始めた。よかった。さっき、チケットを投げ捨てていたら、それでおしまいだった。おれは内心、ほっとした。
 ところが、階段を下りようとしたとたん、ものすごい突風が階段の下から吹き上げて来て、まともに目を開けていられなくなった。仕方なくおれは、後ろ向きになって、地下鉄の階段を一段一段、ゆっくりと下り始めた。ところがそれが、どこまで下りて行っても、階段が終わりになる気配が無い。本当にこの階段は、地下鉄の駅に通じているのだろうか。おれはだんだん、心配になって来た。そこで、階段の先がどうなっているのかを振り向いて見ようとすると、また、ものすごい突風が吹き上げて来て、目を開けていられなくなる。それでおれは、ずっと後ろ向きの格好のままで、地下鉄の階段を一段一段下り続けた。

◆ どれくらい、階段を下りて行っただろうか。次第に周囲が明るくなって来て、階段が終わりに近づいているのが分かるようになった。しばらくすると、やっと階段が終わった。はじめておれは前方を向いて、地下鉄の駅の構内を見渡した。いつの間にか、風が止んでいた。おれの目の前には、広々とした地下鉄のホームが広がっていて、今まで見た事の無いような新型の車両が並んでいた。これは、蒸気機関車どころじゃなかったな。おれは内心、笑ってしまった。ところで、改札口はどこにあるのだろう。おれの乗る電車は、一体、どこに停まっているのだろうか。

 広い地下鉄の駅の構内を歩き続けていると、やっと改札口の表示のある場所が見つかった。と思った所で、自分の持っている乗車券は、セロテープで繋ぎ合わせた物だった事を思い出して、急におれは不安になった。しかも、着いてみると改札口は自動になっている。おいおい、これでは、セロテープで繋ぎ合わせたような乗車券では、ここは通れないぞ。と思って再びポケットから自分の乗車券を取り出して見て、はじめて、これが磁気カードになっている事に気がついた。なんと、まったく今まで気づかないでいた、こんな事。磁気の部分を思いっきりハサミで切り離してしまった乗車券では、自動改札口を通れるはずがない。何とかしなくては。と思って、ほかの改札口が無いかどうか、あちこち回って見たが、やっぱり自動改札口しかない。と言うより、ここの駅には駅員はいないのか。なんだか、どこにも人影が見えないが。
 と、そこでふと改札口の時計を見ると、なんと時計の針が六時五十九分を指している。しまった。もう時間が無い。時間の事をすっかり忘れていた。おれはあわてて、セロテープで繋ぎ合わせた乗車券を自動改札口に挿し込んだ。その瞬間、改札口の機械がシュルシュルシュルッと音をたて、改札口の扉がかぱっと大きく開いた。え、うそ。まるで、夢を見ているみたいだ。おれはそのまま、改札口を通り抜けた。よっぽどうまく、セロテープで貼り合わせたらしい。とかなんとか思いながら。

◆ ちょうど改札口を通り抜けた所で、七時を知らせるチャイムが広い構内に響き渡った。その後、しばらくして構内にアナウンスが流れた。

◇◇ 夜汽車の旅に出発されるお客様は、三番線に停車中の電車に急いでご乗車ください。 ◇◇

 あ、これだこれだ。やっぱり、夜汽車の旅と言うのは本当だったんだ。おれは三番線のホームを見つけると、急いで構内を駆け抜けて、停車中の電車の最後尾のドアから電車の中に駆け込んだ。おれが電車に乗ると同時にドアが閉まって、ゆっくりと電車が動き出した。どうやら、ほかの乗客はとっくに乗車していて、おれが最後だったという事らしい。
 と思って電車の車室に入って行くと、妙な事にどこにも人影が無い。あれれ、この車両には誰も人が乗っていないのか。おれはそのまま、車室の通路をずんずん通り抜けて行って、次の車両に移ったが、次の車両にも人影はまったく無かった。あれれ、ここも誰も人が乗っていない。一体、どの車両に人が乗っているのだ。おれは不思議に思って、次々と車両を移って行ったが、次の車両も、その次の車両も、そのまた次の車両も、どこにも人は乗っていない。とうとう、先頭の車両に着いてしまった。結局、自分以外にはこの電車には、ひとりも乗客は乗っていなかったのか。それにしても、先頭の車両は見晴らしがいいな。地下鉄だと思っていたら、いつの間にか高架の上を走っている。これって新幹線なのか。それとも、もしかして、モノレールか。

◆ しばらく先頭の座席に腰掛けて、前方の変わり行く景色を眺めていたおれは、そのうちふと、ひょっとして誰かが途中の座席に座っていたのを、見逃したりしていなかっただろうか、と思ってもう一度、今来た通路を電車の後方に向かって歩いて行って見る事にした。
 おれは座席から立ち上がると、車両の後方に向かって、再び通路を歩き始めた。と、その時、一人の乗客とぴたりと目が合った。目が合うと同時に、その人がにっこりと笑った。何だ、ちゃんとほかにも乗っている人がいるじゃないか。と思って近づいて行くと、何と、高校時代の同級生の本山美香じゃないか。しかも、おれに向かって手招きしている。

 おれは招かれるままに、同級生の真向かいの座席に腰掛けた。
「中山君、お久しぶりね。」
と、同級生がおれに向かってにっこりと微笑んだ。高校の時と何も変わっていない。昔の本山美香そのままだ。と言うことは、以前、電車の中でたびたび見かけた、本山美香によく似た女の人は、やはり、まったくの別人だったのか。
 予期せぬ突然の出会いで、おれの頭の中はしばらく混線状態になったが、同級生は、おれのそんなようすなど、一向に気にする気配は無かった。
「今、専門学校に通っているの?」
 急に同級生が聞いて来たので、
「え、どうしてそんな事知っているの?」 と、おれは思わず驚いて、口に出してしまった。
「だって、高校の同窓会名簿にちゃんと書いてあったじゃないの。」
と、同級生は笑った。
 そんなもの、一度も書いて出した覚えは無いのに。そうか。うちの親父が勝手に気を利かせて、同窓会の返信葉書に書いて出していたのか。まったく、余計な事をしてくれる。と、そんな事をあれこれと考えているうちに、目の前の同級生の事が気になって来た。
「ところで、本山さんは今、大学に行っているんだよね。ええと、どこの大学に行ってるんだっけ?」
と、おれが聞くと、同級生は急に下を向いて、
「うん、そうね。ちょっと今、休んでいるけどね。」
と、力無く答えた。
「いいねえ、さすがに大学はのびのびとしていて。おれも大学に行けたらよかったな。」
と、おれが大声で笑うと、同級生はほっとした様子で一緒に笑った。

 しばらくして、外の景色がやけにはっきりと見える事にやっと気がついたおれは、
「あれっ、もしかして今夜は満月なのかな。」
と、思わず独り言のように口に出すと、目の前の同級生が黙ってうなずいた。そう言えば、たしか、月曜日の夜が満月だったから、しばらく月の明るい夜が続いているのだな。おれは黙って、月の光に照らされた、変わり行く窓の外の景色を眺めていた。

 それからしばらくすると、窓の外に少しずつ、白い霧が立ち込めて来た。
「あれっ。これって、蒸気機関車の蒸気と一緒だな。やっぱり今夜は、夜汽車の旅だったんだな。」
 思わずおれは口に出した。すると同級生は、急に声を上げて笑い出した。そして、
「中山君って、本当に面白い人なのね。」
と、微笑みながらおれの目を見詰めた。そんなに今のが面白かったのかな。女の人って、よく分からないな。と、おれは思った。それからだんだんと、外の霧が広がって行くのをしばらく見ていたおれは、
「まるで天国の上を走っているみたいだ。」
と、思わずつぶやいた。

 ふと、同級生の方を見ると、さっきまで笑っていた同級生は、いつの間にか顔を伏せていた。どうかしたのだろうか。おれは何も、変な事は言っていないんだけど。と思っていると、やがて顔を伏せている同級生の目から、大粒の涙がぽたぽたと落ち始めた。

2005.08.31 記事公開